ポルタヴァの戦い
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更に同年9月にリヴォニアから救援に向かったアダム・ルートヴィヒ・レーヴェンハウプト率いるスウェーデン別働隊がレスナーヤの戦いでロシア軍に損害を受けて物資の大半を奪われたことも影響を及ぼしていた。

それでもカール12世は進軍を止めることなく、1709年6月、ヴォルスクラ川沿いの要衝ポルタヴァを包囲した。しかし包囲戦の最中の6月17日、カール12世は狙撃兵によって足を負傷し、カール・グスタフ・レーンスケルドに指揮権を委託した。その後まもなくピョートル1世率いる42,000から45,000人前後の兵力と72門のを装備したロシアの援軍がスウェーデン軍の北に到着、スウェーデン軍を逆に包囲した。圧倒的な兵力の劣勢から、カール12世は敵包囲軍を撃破して、北方へ突破することを決意した。

この時点で、スウェーデン軍は著しい凍死者によって20,000人余りに減少しており、ポルタヴァから出撃するロシア軍を牽制するために軍の一部を割かねばならず、攻撃に使用できる兵力は僅か17,000人ほどだった。対するピョートル1世は圧倒的優勢にもかかわらず慎重な姿勢を崩さず、ヴォルスクラ川沿岸に野戦陣地を築いてロシア軍をその中に入れ、陣地南方でポルタヴァと陣地の中間地点に堡塁も築き、横1列に6つ、前方の縦1列に4つと合計10個の堡塁でスウェーデン軍を待ち構えた。ピョートル1世はスウェーデン軍の突撃を銃撃・砲撃による火力で阻止、隊列が乱れた時に反撃に打って出る方針で固めていたのである[3]
戦闘経過ポルタヴァの戦い。ミハイル・ロモノーソフによるモザイク画

6月27日、スウェーデン軍の攻撃は奇襲効果を狙って未明から開始された。スウェーデン軍のこの行動はロシア軍に察知され、左翼のアレクサンドル・メーンシコフは堡塁前で騎兵を率いて迎撃したが、ロシア軍左翼及び中央はスウェーデン軍の勢いに押されて後退し始め、メーンシコフはピョートル1世から後退命令を受け取り堡塁後方に退却した。後を追ったスウェーデン軍は堡塁の集中砲火を浴びて被害を拡大させながらも堡塁を突破、奇襲は成功し、戦闘序盤はスウェーデン軍優位に進んだ。

夜明けになり、ロシア軍陣地前方で集結して態勢を整えたスウェーデン軍は陣地へと攻撃をかけた。レーヴェンハウプトが指揮するスウェーデン軍中央の歩兵部隊がロシア軍中央に攻め寄せたが、この攻勢はすぐに頓挫した。カール12世が直接指揮を執っていなかったため、スウェーデン軍の統率は完全ではなく、各部隊の連携がうまくいかなかったのである。

致命的な損失を招いたのは、カール・グスタフ・ルース大将率いる2,600人の歩兵部隊が、ロシア軍堡塁に仕掛けた突撃である。ルースと指揮下の部隊は未明の奇襲で堡塁突破に失敗して取り残され、塹壕にはまりこんだ状態で猛烈な砲撃を浴び、1,000人以上の損害を出して降伏した。これによってスウェーデン軍の戦線に大きな穴が開いた。

ここにおいてピョートル1世は反撃を命令した。ロシア歩兵隊は陣地から出撃し、スウェーデン歩兵隊へ攻撃を仕掛け、一度撤退したメーンシコフら両翼のロシア騎兵隊も突撃を開始した。最初にスウェーデン軍右翼の騎兵が崩れ、間もなく左翼の騎兵も敗走、ロシア騎兵は両翼からスウェーデン歩兵隊の側面を圧迫した。カール12世は敗勢を悟り全軍に撤退を命令、スウェーデン軍は野営地へ向けて敗走し、ロシア騎兵の追撃によって多くの死傷者を出した。ポルタヴァの包囲軍と合流したスウェーデン軍は野営地を放棄して南へ敗走、ロシア軍は執拗に追跡し、カール12世とマゼーパは追跡から逃れたが、レーンスケルドとレーヴェンハウプトら残りの将兵は戦場から離れたペレヴォローチナで降伏、ロシア軍は多数の捕虜を得た[4]
結果と影響

カール12世とマゼーパは敗残兵に紛れて南へ逃れ、ついにはオスマン帝国へと逃れた。直接の戦闘と一連の追撃によって生じたスウェーデン軍の損失は甚大なものであった。戦死者5,000人以上、生き残った15,000人と援軍6,000人は降伏し、シベリアへと送られた。生きてスウェーデンに帰国できた者はわずかに5,000人であったと言う。

この戦闘は、大北方戦争におけるターニングポイントとなった。この戦いの後、ロシアの主導によって北方同盟が再結成され、デンマークが戦線に復帰し、ポーランドでは廃位されたアウグスト2世が復位するのである。そしてバルト地方は、1年足らずでロシアに帰した。戦争はこの後も継続したが、最早、スウェーデン優位に戻る事はなかった。この戦いは、スウェーデンにおける終わりの始まりを意味した[5]
日付について

当時、スウェーデンは暫定的にスウェーデン暦、ロシアはユリウス暦(旧暦)を使用していた。スウェーデンはその後一旦ユリウス暦に戻し、正式にグレゴリオ暦(新暦)を導入するのは1753年、ロシアは10月革命後の1918年である。そのため、本稿ではユリウス暦で統一した。
脚注[脚注の使い方]^ .mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}Chichester, Henry Manners (1892). "Lacy, Peter" . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 31. London: Smith, Elder & Co. pp. 385?388.
^ 阿部、P120 - P135、土肥、P67 - P71、黒川、P118、武田、P76 - P78
^ 阿部、P135 - P141、土肥、P72 - P84、黒川、P118 - P119、武田、P78 - P79。
^ 阿部、P141 - P144、土肥、P84、黒川、P119、武田、P79 - P81。
^ 阿部、P145 - P146、土肥、P85、武田、P81 - P82。


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