ポピュラー音楽
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アメリカではイギリスやヨーロッパの影響で、18世紀末ころから鼓笛隊などが生まれ、南北戦争の頃にブラスバンドが盛んになり、19世紀後半には博覧会場や公園などで演奏する商業バンドが発達した[34]。特にアメリカ海兵隊バンドの楽長だったジョン・フィリップ・スーザが退役してつくったスーザ吹奏楽団が1892年に活動を開始すると、その演奏水準の高さから大人気となった。19世紀末にアメリカで一番有名だった音楽家は、「行進曲王」の名で世界に知られたスーザだった。同じ頃、バス・ドラムの上にシンバルをセットしたり、バス・ドラムをペダルで演奏するドラムセットの基本アイデアが生まれ、リズムセクションの人数を減らすのに貢献した[35]
ヨーロッパからの移入文化

19世紀後半、東部の都市では、J・シュトラウス2世レハールオッフェンバック、それにロンドンのギルバートとサリバンによるオペレッタが移入され、人気を博した[36]

同じ時期、物語性がなく、歌、ダンス、コメディの寸劇などが演じられるショーとして、レビューが劇場や上流階級用のサロンなどでもてはやされていた。レビューは語源的には〈再見〉を意味するフランス語がジャンルの名となったもので、1820年代のパリで年末にその年のできごとを風刺的に回顧するために演じられた出し物を起源とする。その後、上演時期に関係なく、おおむね風刺的な内容の短い場面をつないだ芸能を指すようになった[37]

ワルツ王J. シュトラウスは、〈ウィンナ・ワルツ〉の名曲を数多く作ったが、熱狂的にヨーロッパに広がったこのワルツはアメリカに渡り、ゆるやかなボストン・ワルツが生まれた[38]

18世紀末から19世紀末にかけて、アメリカの領土は約3倍に、人口は移民や新領土獲得に伴う増で約14倍になっている[39]。こうした中で文化的な統一など望むべくもないが[40]、このように様々な民俗音楽の伝承が相互接触して文化変容するところから、多様なジャンルが生まれてくることになる。
ポピュラー音楽の誕生?19世紀末から1920年代

最初に定義したポピュラー音楽の「近代的な商業音楽」という要素が明確になるのが、1880?90年代の「音楽の商品化システム確立」である。この商品化システムは、自然発生的でローカルな他ジャンルを取り込みつつ発展していく[14]。アメリカは第1次世界大戦の影響をほぼ受けておらず、史上最高の繁栄を見せた時期だったこともこれを後押しし[41]、第1次世界大戦後から大恐慌までの戦後の繁栄と享楽は「ジャズ・エイジ」とも呼ばれる[42]
ティン・パン・アレー[14]

フォスターの時期、つまり19世紀半ばにすでに幅広い活動を行っていた楽譜出版業界は、1880?90年代にはニューヨーク、特にマンハッタンの下町の〈ティン・パン・アレー〉と呼ばれる通りに集中し、音楽を商品化するシステムを確立した。業者が作詞家に具体的な詞の内容にまで注文をつけて作詞させ、作曲家にも細かい指示のもとに作曲させて、その曲を楽譜に印刷して販売し、曲が話題になるように宣伝マンに店先などで歌わせ、その曲が人々に広く歌われれば楽譜が売れて商業的に成功する、という仕組みだった。

この商品化のシステムでは、最初から流行しそうな曲を作詞家作曲家に書かせるための〈プロデュース〉と、それを多くの人に覚えてもらい流行させるための〈プロモーション〉という二つの作業が重要なポイントとなる。プロモーションがうまく行くよう、その曲を人気芸人に歌ってもらい、それに対して謝礼を支払うのを〈ペイオーラ〉と呼んだ。〈ティン・パン・アレー〉は直訳すれば「錫鍋小路」となり、それぞれの会社で試演を行っていたため大変にぎやかだったことからついた名前であるが、のちにポピュラー音楽業界を指すようにもなった。

曲は8小節×4行の32小節が標準で、ティン・パン・アレーの出版社が楽譜を売り、レコード会社はオーケストラ伴奏で録音し、片面1曲ずつのシングル盤として売り出すのが当時の典型的な発表方法だった。このような形の音楽がポピュラー・ソングと呼ばれ、このティン・パン・アレーによって生産される音楽が「メインストリーム」(主流)音楽として幅を利かせ、彼らの確立した生産・販売システムは、その後レコード業界にも踏襲され、1950年代半ばまでアメリカ音楽業界を支えた。この「ポピュラー・ソング」は、最狭義のポピュラー音楽の定義でもある。

こうしたシステムのもと、チャールズ・K・ハリス作の「舞踏会のあとで」(1892)の楽譜は史上はじめてミリオン・セラーを記録し、楽譜出版産業の急成長をうながした。同時期に大衆芸能の主流となったヴォードヴィルでは、人気歌手たちが全米を巡業して、ティン・パン・アレー産の歌を大衆に普及させた。

ティン・パン・アレー流の商業主義路線はアメリカのポピュラー音楽の特徴で、ヨーロッパのような「国民の大多数に共通の文化基盤」が存在しないアメリカでは、自然発生的に何かの音楽が大流行と言うことは大変起こりにくく、楽譜会社・のちにはレコード会社が企画して流行らせる音楽がメインという状況が続いていく。もちろん意図しないところから意図しない曲が大流行することはあり、またティン・パン・アレー側の企画も大外れする場合も多く、常にうまく行っているわけではなかったが、ニューヨークの音楽会社が商業的に流通させるのがアメリカのポピュラー音楽だ、と言う流れはこの頃に確立した。
ミュージカル[43]

ミュージカルは「ミュージカル・コメディ」の略。19世紀半ばに現れ、20世紀前半にニューヨークのブロードウェイを中心にしてアメリカで発展した。オペレッタ、パントマイム、ミンストレル・ショー、ヴォードヴィルなど、19世紀のさまざまな演劇から影響をうけて成立した。元来はコメディの名の通り、他愛のない喜劇的な物語をもっぱら扱っていたが、内容が深刻さを増したり、本格的な演劇性を獲得したりするにつれ、単にミュージカルと呼ばれるようになった。分かりやすい物語と親しみやすい音楽、時にはスペクタクル溢れる装置やコーラス・ガールの肉体的魅力などの視覚的要素で観客にアピールする、ショー・ビジネスが盛んなアメリカにふさわしい、費用の掛かる贅沢な舞台芸術である。

当初はその名の通り、形ばかりの物語で歌や踊りをつないだたわいのない恋愛劇や笑劇と、ヨーロッパ出身の作曲家によるオペレッタ風の作品が多かった。しかし1927年の「ショウボート」で、現実感のある舞台に人種差別などの社会問題を盛り込んだ物語でミュージカルに文学性が持ち込まれ、以後は都会的機知と文学性に富んだミュージカルが多く作られた。


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