ポピュラー音楽
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このためアメリカは、ヨーロッパ型の芸術音楽と大衆音楽、植民地型の混血音楽の双方を国内に抱えることとなり、独自の発展を遂げていく[25]
植民当初から19世紀初期までの状況

植民地時代、白人入植者社会の音楽の大半はイギリスから輸入された世俗音楽や礼拝用音楽だった[26]。18世紀半ばには東海岸ニューイングランドでオリジナルの讃美歌をつくる動きが出てきてアメリカ独自の音楽表現が生まれたが、芸術音楽はヨーロッパ出身者が依然として主導権を握っており、18世紀末にアメリカで一番人気があった曲はイギリスのイギリスの職業作曲家がロンドンの遊園地で行楽客に聴かせるために書いた歌や、英語のバラッド・オペラやコミック・オペラの中でうたわれた歌であったようである。19世紀初めにはイタリア・オペラも人気を博し、ロッシーニベッリーニドニゼッティらイタリアのオペラ作曲家のアリアが、シート・ミュージックのかたちで発売されている。こうした状況を象徴するのがアメリカ合衆国国歌である「星条旗」(1814年)、独立革命中の流行歌「ヤンキードゥードル」(1780年ころ)、準アメリカ合衆国国歌「アメリカ」(1831年)が全てイギリス起源の曲だということである。ただ、アメリカ独自の表現を求める努力は続いており、ニューイングランドですたれた讃美歌づくりはアメリカ南部に伝えられ、「アメイジング・グレイス」などの今日でも歌われる讃美歌を生み出しており、またローウェル・メーソンは1838年にボストンの公立学校に音楽教育を導入したほか、讃美歌を1200曲以上作曲している。
アメリカ民謡の誕生

農村部では、アメリカ南東部のアパラチア山脈周辺でスコットランド民謡やアイルランド民謡などのケルト音楽がアメリカ民謡の下地となっていく[27]。これらはフィドル(ヴァイオリン)やギターやダルシマーで伴奏されていたが、やがて黒人音楽との接触からブルースの感覚やバンジョーというアフリカ起源の楽器を取り入れたり、スイスのヨーデルやチェコのポルカの要素を取り入れたりし、ブルーグラスヒルビリーカントリーなどと呼ばれるジャンルのもとになっていく。
ミンストレル・ショー

ミンストレル・ショー[28]とフォスター[29]とヴォードヴィル[30]

都市部では、イギリスと同様にパーラー・ミュージックやダンスホールの音楽やオペレッタが流行しており、イギリスものが主流で専門家もロンドンで修業してくる流れが続いていたが[17]、1820年ころにミンストレル・ショーという、白人が顔を黒く塗って黒人の真似をする差別的な喜劇が成立する。各自バンジョー・ヴァイオリン・タンバリン・ボーンズ(馬の骨などで作った一種の打楽器)で演奏しながら、コミカルな歌やセリフのやり取りをした。この頃は新移民として東欧(ロシア・ポーランド)や南欧(イタリア・ギリシャ)からの移民が急増しており、彼らは旧移民のように土地や農場を持つこともできず多くは都市の下層労働者となり、旧来のWASPと対立していた。このような新移民たちの間で、黒人を軽く見下して憂さ晴らしできるミンストレル・ショーは受け入れられていた。アメリカポピュラーソング史上最初の国際的なヒットはミンストレル・ショーから出たトマス・ダートマス・ライトの「ジャンプ・ジム・クロウ」(ミンストレル・ショーの代表的な黒人キャラクターの名)である。その音楽の多くは楽譜が出版されて商業的に成功し、アメリカの初期のポピュラー音楽をけん引し、19世紀半ばに最盛期を迎えたが、南北戦争や奴隷解放を経てミンストレル・ショーの人気は陰り、商業的には1910年ころに終焉を迎えた。

こうしたミンストレル・ショーの中から、フォスターが現れる。彼はミンストレル・ソングを書くところから経歴をスタートさせており、「おおスザンナ」「草競馬」「故郷の人々(スワニー河)」「主人は冷たい土の下に」「ケンタッキーの我が家」などは全てミンストレル・ショーのための作品である。やがてミンストレル・ソングに作曲することを恥じ、中流階級向けのパーラー・ソングに脱皮すべく方向転換し、「金髪のジェニー」「夢路より」などを残した。当時作曲家の地位は低く、低収入にあえいでいたフォスターは37歳で非業の死を遂げたが、作品の多さと現在でも歌われている親しみやすさ・その後に与えた影響から、「アメリカ音楽の父」「ポピュラー音楽の先駆者」と呼ばれている。彼の歌の作り方を、次代のポピュラー音楽の作曲家たちはこぞって「フック」(聴き手をとらえる印象的なメロディ。いわゆる「サビ」)の手本にした[31]

同じころ、いくつかの独立した出し物からなる舞台芸能や、軽わざ師、音楽家、コメディアン、手品師、魔術師などからなる芸人のショーがヴォードヴィルと呼ばれるようになった。イギリスのミュージック・ホールに当たるものであり、寄席演芸劇場と訳される。こうした家族で楽しめる娯楽場をアメリカに広めた最初の人物は、俳優で劇場支配人であったトニー・パスターで、1881年、ニューヨーク市の14丁目劇場でバラエティショーをおこなった。ヴォードヴィルは20世紀初頭にはアメリカで一番人気のある芸能となった。
黒人霊歌

黒人たちには18世紀後半あたりからキリスト教が普及し、白人たちもこれを黙認あるいは推奨するようになった[32]とゴスペルとブルース[33]。黒人たちも讃美歌で礼拝を行うようになったが、彼ら固有の音楽的な伝続からか、活気あるリズム・交互唱・叫ぶような唱法など、相当荒々しい形で礼拝を行っていたようである。奴隷だった黒人たちにとっては、教会での礼拝は唯一白人の監視がなく過ごせる場所であり、社交とエンターテインメントの場所でもあった。日曜日の黒人の礼拝のようすを描写した当時の記録によれば、輪になって踊りながらすり足で時計と反対方向に回り、リーダーと会衆とが掛合いで歌い(交互唱)、興奮が高まって憑依状態に達することもあった(リング・シャウトという)。歌といっしょに指をパチパチ鳴らしたり、手拍子をうったり、床を踏みならしたりということも見られ、その中にはポリリズムが含まれる。


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