ポピュラー音楽
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アメリカ大陸に連れて来られた黒人の多くは西アフリカ地域の人たちだったが、アフリカの音楽には広くポリリズムの要素が見られ[20]、特に西アフリカの音楽はホットでテンポも速く、また数人の奏者による打楽器アンサンブルがよく見られる[21]。中には太鼓だけではなく、金属製の打楽器も入ってリズムを明確にすることも見られる。もちろんアフリカを離れてから何世代も経ており、西アフリカの民族音楽そのままではありえないものの、根底にある「身体の奥からゆさぶってくれるようなビート」は明らかに「肉体の解放による喜びと高い精神的な喜びを合一させた」アフリカのダンス音楽のものであり、この要素はその後のポピュラー音楽まで確実に影響している[13]
カリブ海地域

西インド諸島では先住民がほとんど全滅しており、白人と奴隷の黒人が暮らしていた[22]。黒人音楽とヨーロッパ音楽が融合して生み出された音楽の中で、最初に世界的に流行したのはジャズではなく、キューバのハバネラ、中でもスペイン人のイラディエールが作曲した「ラ・パロマ」だった。イラディエールは若いころに数年間キューバに住んだことがあり、そこで接したハバネラのリズムを自作に取り入れて発表し、世界的に大人気となるのみならず、様々な国の音楽に影響を与えた。ハバネラのリズムの影響はアメリカのジャズ、イタリアの「オー・ソレ・ミオ」、トルコからギリシャにかけて伝わるシルトースという踊りのリズム、アルゼンチンのタンゴなどに見られる。またジャズ発祥の地のニューオーリンズに移植された黒人奴隷の大部分は、スペイン領キューバ、フランス領ハイチなどから購入されたものであった[13]
南米地域

南米は全般に先住民・白人・黒人の三者が混交し、メスティーソ(先住民+白人)・ムラート(白人+黒人)・サンボ(先住民+黒人)などの集団が存在する[23]。音楽もメスティソ系とムラート系に分けられるが、それぞれの存在の比率により、メスティソ系(白人の要素が強い、メキシコ・アルゼンチンなど)・メスティーソ系(先住民の要素が強い、ペルー・ボリビア)・ムラート系(ブラジル海岸部・カリブ海地域)などと分けられる。

ブラジルでは18世紀にルンドゥーという踊りの音楽が成立し、最初は野卑なものとして上・中流階層の非難を浴びたが、やがて洗練されて都会的な歌謡形式へと変化した。このルンドゥーは19世紀半ばに同じブラジルで生まれたショーロと混交し、19世紀終わりごろにサンバへと発展する。またアルゼンチンではハバネラのリズムの影響のもと、19世紀末にタンゴが生まれている。タンゴもまた世界的に広まったので例えば日本の演歌などにも影響を与えており、民衆の音楽のグローバリゼーションの最初の例と言われている。もっとも有名なタンゴ「ラ・クンパルシータ」は、24時間365日常に世界のどこかで必ず演奏されているとの伝説もあるほどである。

ルンドゥーもハバネラも付点8分音符と16分音符を組み合わせた軽く跳ねるリズム感をもち、ポルトガルもしくはスペインの音楽にアフリカ的リズム感を加味したものと考えられるが、これがその後のラテン・アメリカの音楽の基調となった。ショーロやタンゴやサンバ、後に現れるキューバのルンバなどもこのリズムの延長上にあると言える。

このようなカリブ海地域・南米地域の音楽はラテン音楽などと呼ばれるが、これがポピュラー音楽の歴史上の要所要所で大きな影響を与え続けることになる。後にはキューバからマンボチャチャチャ、トリニダード・トバゴからカリプソ、マルティニーク島とセント・ルシアからビギン、ブラジルからボサノヴァ、ジャマイカからレゲエなどが生まれ、世界的にも流行している[24]。なお、先の分類でいえばムラート系の影響が勝っていることには留意すべきであろう。
19世紀後半までのアメリカの音楽の状況

アメリカはイギリス・アイルランドを中心とする白人移民の国だが、南部を中心にカリブ海地域から輸入された黒人奴隷を多く抱えており、それぞれの音楽を持ち込んでいる。このためアメリカは、ヨーロッパ型の芸術音楽と大衆音楽、植民地型の混血音楽の双方を国内に抱えることとなり、独自の発展を遂げていく[25]
植民当初から19世紀初期までの状況

植民地時代、白人入植者社会の音楽の大半はイギリスから輸入された世俗音楽や礼拝用音楽だった[26]。18世紀半ばには東海岸ニューイングランドでオリジナルの讃美歌をつくる動きが出てきてアメリカ独自の音楽表現が生まれたが、芸術音楽はヨーロッパ出身者が依然として主導権を握っており、18世紀末にアメリカで一番人気があった曲はイギリスのイギリスの職業作曲家がロンドンの遊園地で行楽客に聴かせるために書いた歌や、英語のバラッド・オペラやコミック・オペラの中でうたわれた歌であったようである。19世紀初めにはイタリア・オペラも人気を博し、ロッシーニベッリーニドニゼッティらイタリアのオペラ作曲家のアリアが、シート・ミュージックのかたちで発売されている。こうした状況を象徴するのがアメリカ合衆国国歌である「星条旗」(1814年)、独立革命中の流行歌「ヤンキードゥードル」(1780年ころ)、準アメリカ合衆国国歌「アメリカ」(1831年)が全てイギリス起源の曲だということである。ただ、アメリカ独自の表現を求める努力は続いており、ニューイングランドですたれた讃美歌づくりはアメリカ南部に伝えられ、「アメイジング・グレイス」などの今日でも歌われる讃美歌を生み出しており、またローウェル・メーソンは1838年にボストンの公立学校に音楽教育を導入したほか、讃美歌を1200曲以上作曲している。
アメリカ民謡の誕生

農村部では、アメリカ南東部のアパラチア山脈周辺でスコットランド民謡やアイルランド民謡などのケルト音楽がアメリカ民謡の下地となっていく[27]。これらはフィドル(ヴァイオリン)やギターやダルシマーで伴奏されていたが、やがて黒人音楽との接触からブルースの感覚やバンジョーというアフリカ起源の楽器を取り入れたり、スイスのヨーデルやチェコのポルカの要素を取り入れたりし、ブルーグラスヒルビリーカントリーなどと呼ばれるジャンルのもとになっていく。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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