ポピュラー音楽
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ポピュラー音楽のルーツとして、19世紀後半のヨーロッパの大衆音楽、カリブ海及び南米の混血音楽、アメリカで誕生した音楽の3つが指摘できる[13]
19世紀後半のヨーロッパの大衆音楽

19世紀後半、ヨーロッパでは資本主義の興隆によって豊かな中産階級の拡大と都市部への労働人口の流入が見られた。中産階級はワンランク上の生活に憧れオペラ劇場に定席を得たり子女にピアノを習わせたりすることがステータスとなり、労働者たちは生活の安定と余暇の充実に伴って娯楽として音楽を楽しむ習慣が広まり、クラシック・大衆音楽とも大幅に聴衆を増やし、現代に近い形で多くの人の生活に音楽がとりいれられるようになった[14]。こうした中で、主に都市部で盛んになった大衆音楽が、のちのポピュラー音楽に大きな影響を与えている。
社交ダンス

ヨーロッパではもともとダンスが盛んで、民俗音楽の中にも多くの踊りが見られる[15]が、そこから変化したワルツ、ワンステップなどの社交ダンスの音楽が、ギターやアコーディオンを含むバンドで演奏されるようになった[14]。ワルツは、オーストリアの山岳地方の舞曲レントラーが洗練・発展したものだが、ヨーロッパ中に熱狂的に広まり、19世紀を代表する舞曲となった。
オペレッタ[16]

18世紀にはすでにバラッド・オペラ(イギリス)、ジングシュピール(ドイツ)、オペラ・コミック(フランス)のような、民謡(または民謡風の単純な歌)を材料にした親しみやすいオペラが人気だったが、19世紀には喜劇的な内容の親しみやすいオペラがオペレッタ(軽歌劇)という名で人気を集めるようになった。オッフェンバックの「地獄のオルフェ」やスッペの「軽騎兵」やJ・シュトラウス2世の「こうもり」やレハールの「メリー・ウィドウ」などが挙げられる。
パーラー・ミュージック[13]: parlour music)

「パーラー」は「応接間」のこと。中産階級女性の間で盛んだったもので、家庭のパーラー(談話室)で家族や知り合い同士で、ピアノやギターなど家庭にあるような楽器で伴奏され歌われた。1曲1枚のシートミュージックと言う楽譜の形で販売された。
ミュージック・ホール

ミュージック・ホールとは、客が飲食を摂りながら音楽を楽しむことを目的とした施設で、パブで歌で客をもてなしたのが起源[14]。1852年、イギリス最初の専用のホールとしてロンドンに開かれたカンタベリー・ホールは、客が飲食をとるために椅子とテーブルを並べた部分と舞台とをもっており、以後、同種のホールが全国につくられた。当初は大工業都市の労働者のビア・ホールとして生まれたものだったが、19世紀後半には飲酒よりも娯楽の方が重要になり、ユーモラスで風刺的または感傷的な歌からなる演芸を提供した[17]。音楽だけでなく踊りやコントや手品、動物の芸、アクロバットなども演じられ、人気を博していた[18]。1868年にはイギリスには500を超えるミュージック・ホールがあった[14]。パリのムーラン・ルージュもミュージック・ホールである[18]
シャンソン

現代大衆歌謡としてのシャンソンは19世紀後半から20世紀初頭にかけて確立され、演劇的表現スタイル、反権威的現実主義、ミュゼット(同時代に誕生したダンス音楽)のアコーディオンと3拍子を伝統とする[19]。パリやベルリンのキャバレー・カフェ・レビュー小屋などで盛んに歌われた[14]

こうした当時の大衆歌謡は、クラシック歌曲の通俗版としての性格をもち、歌い手も美しい声ではっきりと歌うのが普通だった[14]

現在「スコットランド民謡」「アイルランド民謡」などとして知られている曲の多くは、この時代にパーラー・ミュージックや酒場やミュージック・ホールの歌として人気を得たものが多く、「蛍の光」「庭の千草」「ダニー・ボーイ」「ホーム・スイート・ホーム」「アニーローリー」などが該当するし、フランスのシャンソンも古いもの(「さくらんぼの実る頃」など)は該当する。ロシア民謡として日本で知られている歌も、この時代の言わば歌謡曲が多く、「一週間」「カリンカ」「トロイカ」「コロブチカ」などはこの時代のものである。これらの中には売ることを目的に作曲されたものと、本当に民謡を手直ししたものが混在している。民俗音楽とポピュラー音楽の境界線はまだ曖昧であった[13]
植民地の混血音楽

当時たくさんあった植民地では、都市部の中産階級はヨーロッパの芸術音楽や大衆音楽をそのまま持ち込み[14]、農村部ではヨーロッパの民俗音楽がそのまま持ち込まれていた。が、植民地での都市の発展の中で形成された周辺部のスラム地区で、黒人や先住民の音楽とヨーロッパ系の音楽が融合して新たな音楽が生まれる現象が様々な植民地で見られている。担い手は船乗りや日雇労働者、賭博師、売春婦などのいわゆるルンペンプロレタリアート層であった。リズムの肉体性・わざと濁らせた音色や声色・楽譜通りではない何らかの即興性などの要素を特徴とする。こうした音楽はその地域のエリート層からは下級な音楽として蔑視されたが、後にヨーロッパの民衆によって価値が見いだされて世界的な流行音楽となっていった例が多い。この種の音楽の最初期のものはスリランカとインドネシアで見られるが、後のポピュラー音楽に大きな影響を与えたのはカリブ海および南米地域のものである。
黒人音楽の要素

アメリカ大陸に連れて来られた黒人の多くは西アフリカ地域の人たちだったが、アフリカの音楽には広くポリリズムの要素が見られ[20]、特に西アフリカの音楽はホットでテンポも速く、また数人の奏者による打楽器アンサンブルがよく見られる[21]。中には太鼓だけではなく、金属製の打楽器も入ってリズムを明確にすることも見られる。もちろんアフリカを離れてから何世代も経ており、西アフリカの民族音楽そのままではありえないものの、根底にある「身体の奥からゆさぶってくれるようなビート」は明らかに「肉体の解放による喜びと高い精神的な喜びを合一させた」アフリカのダンス音楽のものであり、この要素はその後のポピュラー音楽まで確実に影響している[13]
カリブ海地域

西インド諸島では先住民がほとんど全滅しており、白人と奴隷の黒人が暮らしていた[22]。黒人音楽とヨーロッパ音楽が融合して生み出された音楽の中で、最初に世界的に流行したのはジャズではなく、キューバのハバネラ、中でもスペイン人のイラディエールが作曲した「ラ・パロマ」だった。イラディエールは若いころに数年間キューバに住んだことがあり、そこで接したハバネラのリズムを自作に取り入れて発表し、世界的に大人気となるのみならず、様々な国の音楽に影響を与えた。ハバネラのリズムの影響はアメリカのジャズ、イタリアの「オー・ソレ・ミオ」、トルコからギリシャにかけて伝わるシルトースという踊りのリズム、アルゼンチンのタンゴなどに見られる。またジャズ発祥の地のニューオーリンズに移植された黒人奴隷の大部分は、スペイン領キューバ、フランス領ハイチなどから購入されたものであった[13]
南米地域

南米は全般に先住民・白人・黒人の三者が混交し、メスティーソ(先住民+白人)・ムラート(白人+黒人)・サンボ(先住民+黒人)などの集団が存在する[23]。音楽もメスティソ系とムラート系に分けられるが、それぞれの存在の比率により、メスティソ系(白人の要素が強い、メキシコ・アルゼンチンなど)・メスティーソ系(先住民の要素が強い、ペルー・ボリビア)・ムラート系(ブラジル海岸部・カリブ海地域)などと分けられる。

ブラジルでは18世紀にルンドゥーという踊りの音楽が成立し、最初は野卑なものとして上・中流階層の非難を浴びたが、やがて洗練されて都会的な歌謡形式へと変化した。このルンドゥーは19世紀半ばに同じブラジルで生まれたショーロと混交し、19世紀終わりごろにサンバへと発展する。


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