ポピュラーエレクトロニクス
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その年の秋に、社名をDEMCOからサウスウェスト・テクニカル・プロダクツ・コーポレーション(SWTPC)に変更した[12]

1967年の『ポピュラーエレクトロニクス』誌にはダン・メイヤーの記事が6本、ドン・ランカスターの記事が4本掲載されていた。その年の表紙記事のうち7つはSWTPC社が販売したキットが取り上げられていた。1966年から1971年の間にSWTPC社の執筆者は64本の記事を書き、ポピュラーエレクトロニクス誌で25回表紙を飾った(ドン・ランカスターだけで23本の記事を書き、表紙に10回掲載された)。『サンアントニオ・エクスプレス・ニュース(英語版)』紙は1972年11月にSWTPC社の特集記事を掲載した。それには、「メイヤーはゼロから通販ビジネスを始め、6年間で100万ドル以上の売り上げを記録するまでになった」とある。同社はかつては、1,700平方メートルの建物から1日に100個のキットを出荷していた[13]

他の執筆者もSWTPC社の成功に気づいていた。MITS社の共同創設者であるフォレスト・ミムズは『クリエイティブ・コンピューティング(英語版)』誌のインタビューで、『ポピュラーエレクトロニクス』1970年11月号の表紙に掲載された自身の発光ダイオードについての記事について、次のように語っている[14]

3月、私はポピュラーエレクトロニクス誌に、発光ダイオードに関する特集記事を初めて売り込みました。ある日の真夜中のミーティングで、私はサウスウエスト・テクニカル・プロダクツを真似て、ポピュラーエレクトロニクス誌のためにプロジェクトの記事を執筆してはどうかと提案しました。この記事は、プロジェクトのキット版の広告を無料で提供してくれるだろうし、その雑誌は、その記事を印刷するために私たちにお金を払ってくれるだろうと思ったのです!

1970年11月号には、フォレスト・ミムズとエド・ロバーツによるAssemble an LED Communicator - The Opticon(LED通信機「オプティコン」の組み立て)という記事が掲載されている[15]。部品のキットは、ニューメキシコ州アルバカーキのMITS社に注文することができた。ポピュラーエレクトロニクス誌は、この記事の原稿料として400ドルを支払った。
『エレクトロニクスワールド』誌との合併

『ラジオ&テレビジョンニュース』誌は1959年に『エレクトロニクスワールド』(Electronics World)となっていたが、1972年1月に『ポピュラーエレクトロニクス』誌に統合された。このプロセスは1971年夏、長年にわたり編集者だったオリバー・P・フェレルに代わって、新しい編集者のミルトン・S・スニッツァーが就任したことから始まった。スニッツァーは、CBラジオやオーディオ機器など、広告の出稿が盛んなトピックに焦点を当てることにした。電子工作プロジェクトはもはや特集記事ではなく、それらは新製品のレビューに置き換えられた[16]。編集の方向性の変化は、多くの執筆者を動揺させた。ダン・メイヤーはSWTPC社のカタログに、顧客に対して競合誌の『ラジオ=エレクトロニクス』誌への切り替えを促す文章を掲載した。

ドン・ランカスター、ダン・メイヤー、フォレスト・ミムズ、エド・ロバーツ、ジョン・サイモントン(英語版)などの執筆者が『ラジオ=エレクトロニクス』誌に移った。「ソリッドステート」のコラムニストだったルー・ガードナーでさえ、1年間『ラジオ=エレクトロニクス』誌に移っていた[17]。『ポピュラーエレクトロニクス』の技術編集者であったレス・ソロモンも、B. R. Rogenという偽名を使って『ラジオ=エレクトロニクス』誌に6本の記事を書いていた[16]。1972年と1973年には、『ポピュラーエレクトロニクス』が合併を進めて行く中で、最高の電子工作プロジェクトが『ラジオ=エレクトロニクス』誌に登場した。この時代に生まれた次世代のパーソナルコンピュータは、『ラジオ=エレクトロニクス』と『ポピュラーエレクトロニクス』の間のこの競争の恩恵を受けていた。1975年1月に記事が掲載された事が契機となり普及したAltair 8800

1973年9月、『ラジオ=エレクトロニクス』誌で、ドン・ランカスターが設計した低価格の端末であるTVタイプライターが発表された。1974年7月、『ラジオ=エレクトロニクス』誌で、Intel 8008を使用したマイクロコンピュータMark-8が発表された。『ポピュラーエレクトロニクス』の出版社は『ラジオ=エレクトロニクス』誌の成功に注目し、1974年にはアーサー・P・サルスバーグが編集者に就任した。サルスバーグと技術編集者のレス・ソロモンは、電子工作プロジェクトの特集記事を復活させた。『ポピュラーエレクトロニクス』誌は、雑誌で特集するコンピュータのプロジェクトを探し、Intel 8080を使用したエド・ロバーツのAltair 8800を取り上げることにした[18]。『ポピュラーエレクトロニクス』1975年1月号の表紙にAltairが掲載され、これがパーソナルコンピュータ革命の幕開けとなった。

最初の20年間は、ダイジェストサイズ(英語版)(6.5インチ×9インチ)だった。表紙のロゴは、長方形のボックスにサンセリフの書体だった。表紙には大きなイメージの特集記事が掲載されていたが、通常は電子工作の構築記事が中心だった。1970年9月、表紙のロゴは下線付きのセリフ体に変更された。雑誌の内容、タイポグラフィ、レイアウトも更新された[19]。1972年1月には、表紙のロゴに"including Electronics World"(『エレクトロニクスワールド』を含む)という文言が加えられ、巻数が1にリセットされた。2年後に"including Electronics World"の文言はなくなった。特集企画の大きな写真はなくなり、記事のテキストリストに置き換えられた。1974年8月、雑誌はより大きなレターサイズ(8.5インチ×11インチ)に変更された。これは、回路図などの図版を大きくしたり、印刷をオフセット印刷機に切り替えたりするほか、広告主からの広告ページを大きくしたいという要望に応えるためだった[20]。長年目次に書かれていた"World's Largest Selling Electronics Magazine"(世界で最も売れている電子工学雑誌)というタグラインは表紙に移された。
パーソナルコンピュータロジャー・メレンリー・フェルゼンスタインハリー・ガーランド(2013年)。このの3人は、『ポピュラーエレクトロニクス』誌に画期的なパーソナルコンピュータ製品を紹介した。メレンとガーランドのCyclopsDazzler、フェルゼンスタインのペニーホイッスルモデム(英語版)とSolである。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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