7月1日 - 7月3日、南北戦争最大の激戦となったゲティスバーグの戦いでポトマック軍はリーの北バージニア軍に勝利した。この勝利が転換点となり、東部戦線でも北軍が優勢となった。但し、ミードは積極的にリーを追撃せず、戦争はさらに2年弱続くことになる。ポトマック軍は秋に2つの攻撃作戦、ブリストー方面作戦とマイン・ランの戦いを実行したが大した戦果を得られなかった。
1864年3月、ユリシーズ・グラントが中将に昇進し北軍全体の指揮を任せられた。グラントは作戦本部をポトマック軍司令部においた。ポトマック軍の司令官はミードのままであったが、それ以降実質的にはグラントが指揮をとる形となった。5月5日-7日の荒野の戦いでは両軍ともに大きな損害を出したが、グラントは前進を命令した。1週間後のスポットシルバニア・コートハウスの戦いでも北軍の損害は南軍より大きかったが、グラントは北軍は消耗に耐えうると確信しており、後退はしなかった。グラントはリッチモンドの南にある鉄道拠点であるピーターズバーグ (バージニア州)の攻略を計画し、1864年6月15日 - 1865年3月25日の9ヶ月間にわたるピーターズバーグ包囲戦が生じた。リーはピーターズバーグを脱出し、ノースカロライナ州にいた南軍の他の部隊と合流し、反撃を行うことを計画した。ポトマック軍は脱出した北バージニア軍を追撃し、連日の様に戦闘が行われたが、アポマトックス・コートハウスの戦いで敗れたリーは、1865年4月6日に降伏した。
戦争が終了すると、ポトマック軍は1865年5月23-24日に行われた大観閲式(Grand Review of the Armies)に参加し、6月28日に解散した。
著名な部隊
旅団聖パトリックの日を祝うため障害競走を行う、ポトマック軍のアイリッシュ旅団。1863年3月17日、エドウィン・フォーブス( Edwin Forbes)画
ポトマック軍の活動地域は、ワシントン、フィラデルフィア、ニューヨーク等の北部の大都市に近かったため、他の野戦軍に比べてメディアへの露出が多かった。構成部隊もまた有名になった。アイリッシュ旅団(Irish Brigade)、フィラデルフィア旅団(Philadelphia Brigade)、第一ニュージャージー旅団(First New Jersey Brigade)、バーモント旅団(Vermont Brigade)、アイアン旅団(Iron Brigade)等は、南北戦争中も戦争終了後も、一般大衆に良く知られていた。
軍団ポトマック軍の偵察部隊、マシュー・ブレイディ撮影
1862年3月、エイブラハム・リンカーン大統領はポトマック軍の下に軍団を編成した。(その時まで、マクレランは軍団の設置に抵抗していた。軍団はナポレオンの軍隊が初めて編成したものであるが、マクレランは彼の師団長達を昇進させる前に、彼らが半島方面作戰の戦闘で通用するかを見たかった。リンカーンはマクレランの合意を得ること無く、先任順に軍団長を任命した。)最初に編成されたのは、第1軍団(アービン・マクドウェル)、第2軍団(エドウィン・サムナー)、第3軍団(サミュエル・ハインツェルマン)、第4軍団(エラスムス・キース)及び第5軍団(ナサニエル・バンクス、後の第12軍団)であった。半島方面作戦前に、第1軍団と第5軍団がポトマック軍傘下より外されたため、マクレランはより彼に忠誠心を持つと思われる将軍が指揮する2個軍団を作戦中に編成した:第5軍団(再編成フィッツ・ジョン・ポーター)及び第6軍団(ウィリアム・B・フランクリン)である。
ポトマック軍に所属したことがある軍団には、第1~第6軍団に加え、第9軍団、第11軍団(フランツ・シーゲル)、第12軍団(ナサニエル・バンクス、旧第5軍団)があった。また当初は2個騎兵師団を有していたが、1863年には1個騎兵師団が追加され、計3個騎兵師団からなる騎兵軍団が編成された。しかし、これらの軍団全てが常にポトマック軍傘下にあった訳ではない。第4軍団は半島作戰終了後にバージニア軍管区に所属替えとなった。第9軍団は1863年2月に西部戦線へ一旦抽出され、東部戦線に戻った後もユリシーズ・グラントの直接指揮下にあったが[3]、1864年5月にはポトマック軍に戻っている。1863年中はポトマック軍は8個軍団(第1、第2、第3、第5、第6、第11、第12及び騎兵)を有していたが、消耗と他方面への転出のために、1864年3月に4個軍団(第2、第5、第6及び騎兵)に再編された(5月に第9軍団が戻り、計5個軍団)。騎兵軍団の内2個師団はシェナンドー渓谷に派遣され、第2騎兵師団のみがポトマック軍に残された。しかしこの師団も、戦争の最終段階でフィリップ・シェリダン少将の指揮下に移された。
司令官
1861年5月27日-1861年7月25日:アービン・マクドウェル准将(北東バージニア軍管区)
1861年7月26日-1862年11月9日:ジョージ・マクレラン少将
1862年11月9日-1863年1月26日:アンブローズ・バーンサイド少将
1863年1月26日-1863年6月28日:ジョセフ・フッカー少将
1863年6月28日-1865年6月28日:ジョージ・ミード少将
ミード不在中、ジョン・パーク少将が4度代理で指揮をとっている
陸軍総司令官となったユリシーズ・グラント(当時中将)は、1864年5月から1865年4月にかけて、自身の司令部をポトマック軍司令部に置き、ミードに指示を出していたが、ポトマック軍司令官はミードであった。
参加した主要な戦闘
第一次ブルランの戦い 、マクドウェル
半島方面作戦( 七日間の戦いを含む)、マクレラン
北バージニア方面作戦(第二次ブルランの戦い を含む)
バージニア軍に3個軍団を派遣
メリーランド方面作戦(アンティータムの戦い を含む)、マクレラン
フレデリックスバーグの戦い、バーンサイド
チャンセラーズヴィルの戦い、フッカー
ゲティスバーグ方面作戦、ミード
ブリストー方面作戦、ミード