ポツダムの日
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ヒンデンブルクが1934年8月に死去すると、大統領職は首相職と統合され、指導者兼首相(ドイツ語: Fuhrer und Reichskanzler)であるヒトラー個人に大統領の権能が移譲された(総統)。
催事の目的

ナチスがポツダムの日で望んだのは、ヒトラーをフリードリヒ大王、ビスマルクヒンデンブルクといった連綿と続くプロイセンドイツ史に組み込み、その一環として提示することであった。

ポツダムは明確な意図をもって会場に選ばれた。ポツダムは歴代プロイセン王が居城を置いた都市で、ドイツの過ぎし栄光の日々のシンボルであり、ナチ政権は自らをこれと結び付けようとしたのであった[1]。3月21日となったのも、1871年の同日にドイツ帝国の第1回国会が開会したためである[1]。この催事はこの直前に設立されたばかりの国民啓蒙・宣伝省を率いるヨーゼフ・ゲッベルスにとって初の大規模な演出となった。

大統領と首相が握手するシーンは見る者に対し、ヒトラーやナチスといっても、敬愛される国父ヒンデンブルクにはこうして臣従しているのだから、もうヒトラーは危険ではない、といった印象を与えることが意図されていた。このジェスチャーは、さらには戦争の英雄ヒンデンブルクと一兵卒ヒトラーの連続性をもシンボル化した。ヒトラーは今や国軍への責任をも引き受けたためである。アンドレ・フランソワ=ポンセはこの式典が右翼の同盟者を「欺き幻惑させ」、ヒトラーが彼らの忠実な雇人であると安心させるための「最後の目くらましの場」であったと評している[1]
帰結
全権委任法の採決

社民党はこの式典には示威行動として参加せず、共産党員や社民党の有力者の一部は、内務大臣(ドイツ語版) ヴィルヘルム・フリックの言葉によれば「強制収容所での有用な労働」を理由にして出席を妨害された。1933年3月23日に新国会が開催され、全権委任法の審議、採決が行われると、出席した社民党を除いた全議員がこれに賛成した。2日前に行われたこの催事は、数々の演説の中で幾度となく言及された。しかし「ポツダムの日」よりも重要だったのは、実はカトリックの中央党の賛成であった。権力の衝動にかられたヒトラーを、法律によって国家という規律ある路線に導こうという希望からであった。
歴史像1934年発行の2RM硬貨。表面には、衛戍教会とポツダムの日の日付、および鉤十字が刻印されている[9]

ナチスのプロパガンダプロイセンの歴史を意図的にナチズムに取り込もうとした。ポツダムの日は、特に国外に向けてはその目的に合致するものであった。ゼバスティアン・ハフナー(ドイツ語版)といった歴史家やジャーナリストは、この数十年、世間に流布するプロイセン国家のイメージの変革を試みてきた。例えば、プロイセンの本質は、伝統的に法治国家であったが、これをヒトラーは「政権獲得」で破壊したのである。ハインリヒ・アウグスト・ヴィンクラー(ドイツ語版)はポツダムの日の幻想について書いている[10]。ヒンデンブルク大統領が衛戍教会でフリードリヒ大王と無言の会話を交わすべく、独り棺がある地下墓所に降りていったとき、多くのドイツ人の愛国的な琴線に触れたが、これはアルフレート・フーゲンベルクの「ウーファ」のフリデリクス・レックス映画(ドイツ語版)が呼び起こしてきたものであった。しかし1933年3月21日は、かつてのプロイセンが復活したのではなかった。新たな支配者は、ただその神話を利用したに過ぎなかった。自らの支配に、1933年3月5日に有権者によって選ばれた者たちよりも、高次の正当性という装いを与えるために。
参考文献

Martin Sabrow
: Der ?Tag von Potsdam“. Zur Karriere eines politischen Symbols Vortrag 2003 ( ⇒Digitalisat)


John Zimmermann: Der Tag von Potsdam. In: Michael Epkenhans, Carmen Winkel (Hrsg.): Die Garnisonkirche Potsdam. Zwischen Mythos und Erinnerung. Im Auftrag des Zentrums fur Militargeschichte und Sozialwissenschaften der Bundeswehr. Rombach, Freiburg im Breisgau 2013, ISBN 978-3-7930-9729-7, S. 69?90.

南利明「 ⇒NATIONALSOZIALISMUSあるいは「法」なき支配体制(二)」(pdf)『静岡大学教養部研究報告. 人文・社会科学篇 (2)』第24巻第2号、静岡大学、1988年、199-223頁、.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}NAID 110007616176。


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