ボーン・アイデンティティー
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ユニバーサル・ピクチャーズは新しい映画シリーズにすべくラドラムの原作の映画化権を獲得した[5]。1999年には脚本を洗練するためにウィリアム・ブレイク・ヘロンが加わっている[6]

リーマンが特にインスピレーションを受けたのは、父アーサーがイラン・コントラ事件の捜査に関わった際の回想録からである。アレクサンダー・コンクリンという人物の多くの側面は、オリバー・ノースに関する父親の回想に基づくものである。リーマンは、小説の内容を近代化し、米国の外交政策に関する自分の信念に合わせるために、原作の柱となる部分以外の多くを捨てたことを認めている。しかし、リーマンは自分の政治的見解を「観客の喉」に詰めないように注意したという。本作の公開が9.11の同時多発テロの後になったことで、陳腐化したり全体的な評価が下がる懸念が当初はあったが、その懸念は杞憂であった[4]
キャスティング

リーマンは、『スパイ・ゲーム』に出演するためにオファーを断ったブラッド・ピット[7]をはじめ、ラッセル・クロウアーノルド・シュワルツェネッガートム・クルーズシルヴェスター・スタローンなど幅広い俳優にボーン役を打診し、最終的にデイモンを起用することになった。デイモンは、本作がアクションの比重が高いものの、キャラクターとストーリーに焦点を当てていることを理解し、評価していた[8]。彼はスタント・コーディネーターのニック・パウエルとともに、スタント、武器の使用、ボクシング、フィリピンの武術エスクリマなど、3ヶ月にわたる本格的なトレーニングを受けた。最終的に彼は、素手による格闘や、建物の壁を登るシーンなど、この映画のかなりの数のスタントを自分でこなした[9]
撮影

撮影は2000年10月から開始された[10][11]。撮影開始当初から、スタジオとの問題が製作を遅らせ、監督とユニバーサル・ピクチャーズとの間に亀裂を生じさせた。経営陣は映画のテンポ、アクションの細かさ、そしてスタジオの直接的な関与を疑っているリーマンとの間の関係全般に不満を持っていたからである[12]。開発後半に行われた多くの再撮影と書き直しに加え、スケジュールの問題で、公開は当初の目標日である2001年9月から2002年6月にずれ込み、当初予算6千万ドルに対して800万ドルもオーバーしてしまった。脚本のトニー・ギルロイは、撮影期間中、ほぼずっと脚本の部分的な書き換えをファックスしてきていた[12]。ギルロイの元の脚本について特に争点となったのは、映画のラスト近くの農家のシーンであった。リーマンとマット・デイモンは、スタジオが主張した第3幕の書き換えでこのシーンが一旦削除された後、それを残すために争った。リーマンとデイモンは、このシーンは地味ではあるが、観客がボーンというキャラクターと映画の中心的テーマを理解するために不可欠なものだと主張した。その結果、農家のシークエンスはオリジナルの姿から何度も書き直されて採用された[12]

他の問題としては、スタジオがコスト削減のためにパリのシーンをモントリオールプラハで代用しようとしたこと、リーマンがフランス語を話す撮影スタッフにこだわったこと、パリのシーンの結末について試写の反応が悪かったことなどが挙げられる。後者の問題に対しては、パリのストーリーをよりアクション重視の新しい結末にするため、再度ロケに出る必要が生じた[13]。撮影はパリのほか、プラハ、インペリアローマミコノスチューリッヒで行われ、チューリッヒのいくつかのシーンはプラハでも撮影された[4]。デイモンは、彼とリーマンがスタジオと抱えた初期の対立を引き合いに出して、製作が苦労の連続だったと述べたが、極端に困難ではなかったとし、「製作が悪夢だったという話を聞くと、どれほど『悪夢』なのかと思ってしまうが、撮影は常に困難なものだし、我々はそれを完成させたんだ。」と述べている[14]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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