撮影は2000年10月から開始された[10][11]。撮影開始当初から、スタジオとの問題が製作を遅らせ、監督とユニバーサル・ピクチャーズとの間に亀裂を生じさせた。経営陣は映画のテンポ、アクションの細かさ、そしてスタジオの直接的な関与を疑っているリーマンとの間の関係全般に不満を持っていたからである[12]。開発後半に行われた多くの再撮影と書き直しに加え、スケジュールの問題で、公開は当初の目標日である2001年9月から2002年6月にずれ込み、当初予算6千万ドルに対して800万ドルもオーバーしてしまった。脚本のトニー・ギルロイは、撮影期間中、ほぼずっと脚本の部分的な書き換えをファックスしてきていた[12]。ギルロイの元の脚本について特に争点となったのは、映画のラスト近くの農家のシーンであった。リーマンとマット・デイモンは、スタジオが主張した第3幕の書き換えでこのシーンが一旦削除された後、それを残すために争った。リーマンとデイモンは、このシーンは地味ではあるが、観客がボーンというキャラクターと映画の中心的テーマを理解するために不可欠なものだと主張した。その結果、農家のシークエンスはオリジナルの姿から何度も書き直されて採用された[12]。
他の問題としては、スタジオがコスト削減のためにパリのシーンをモントリオールかプラハで代用しようとしたこと、リーマンがフランス語を話す撮影スタッフにこだわったこと、パリのシーンの結末について試写の反応が悪かったことなどが挙げられる。後者の問題に対しては、パリのストーリーをよりアクション重視の新しい結末にするため、再度ロケに出る必要が生じた[13]。撮影はパリのほか、プラハ、インペリア、ローマ、ミコノス、チューリッヒで行われ、チューリッヒのいくつかのシーンはプラハでも撮影された[4]。デイモンは、彼とリーマンがスタジオと抱えた初期の対立を引き合いに出して、製作が苦労の連続だったと述べたが、極端に困難ではなかったとし、「製作が悪夢だったという話を聞くと、どれほど『悪夢』なのかと思ってしまうが、撮影は常に困難なものだし、我々はそれを完成させたんだ。」と述べている[14]。
リーマンの監督手法は、しばしば実践的であった。自分自身と素材と俳優の間に、より親密な関係を築きたいと考え、自らカメラを操作することも少なくなかった。モニターに映し出される映像をただ見ているだけでは、この関係は失われると考えたのだ。これは、小規模なインディーズ映画製作者としての経歴から培われた考え方であった[9]。
カーチェイスのシーンは、アレクサンダー・ウィットが率いるセカンド・ユニットが中心となって撮影し、高い評価を得た。リーマンがパリの別の場所で本編を撮影している間、このユニットはパリ周辺のさまざまな場所で撮影を行った。完成した映像は最終的に編集されて一連のアクションであるかのように見えるが、「パリを本当に知っている人なら誰でも矛盾に気づくだろう」とリーマンは述べた[13]。リーマンが自分で撮影したカーチェイスシーンは数カットだけで、その中で際立つのは車中のデイモンとポテンテのカットである[4]。
領事館のシーンは2001年に撮影され、本物のアメリカ海兵隊保安警護隊が領事館の警備役を演じた[15]。