ボードゥアン3世_(エルサレム王)
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ボードゥアン3世はガリラヤアッコティールを含む王国北部を保持し、一方メリザンドはユダヤサマリアナーブルス、そしてエルサレムを含む王国南部を領有することとなった。また王国の軍司令官マナセスや、メリザンドの支配のもとでヤッファ伯国を有していたアーモリーはメリザンドを支援する側に回った。メリザンド・ボードゥアンの両者は、この取り決めに不満を抱き、ボードゥアン3世に至っては王国分割処置の影響でエルサレム王国の国力低下を危惧し、王国全土の一元統治を望んでいたとされるが、内戦を避けるためにメリザンドはこの処置を受け入れたのである。

しかし数週間後、ボードゥアン3世は王国南部に侵攻を開始した。メリザンドを支援していたマナセス将軍はミラベル城でボードゥアンに敗れて亡命し、ボードゥアンはナーブルスを早急に占領した。これ以上の困難を避けるため、エルサレム市民は城門を開放し、メリザンドとアーモリーはダビデの塔に逃げ込んだ。ダビデの塔の包囲と同時に、ボードゥアンと聖職者は会談を重ね、メリザンドとの休戦条約が取り決められた。メリザンドは協定により助命された上でナーブルスの領有が認められた。そしてボードゥアン3世はマナセス将軍に代わりトロン領主オンフロワ2世(英語版)をエルサレム王国軍司令官に任命した。

1154年までに、ボードゥアン3世とメリザンドは講和し、ボードゥアンは機敏にも母メリザンドの優れた政治的手腕を見抜き、彼女を重用し続けた。しかし同時にボードゥアン3世は、エルサレム王としての諸侯に対する自身の権威を取り戻した[2]。メリザンドは 引退 していたものの、王宮と王国政府における強力な影響力を保持し続けたとされており、ボードゥアンが遠征でエルサレムを留守にしている間などには摂政として王国の政治を取り仕切っていた。
復活

エルサレム王国が内部分裂していたころ、シリアの支配者ヌールッディーンは新しく占領したダマスカスの併合・統治力の強化に奔走していた。王国北方は強力な1人の支配者によって統合されつつあったため、十字軍は南方のエジプト地域への勢力拡大を推し進めた。当時のエジプトでは、幼い支配者が連続して即位したことにより内戦状態に陥っていたためである。1150年ごろ、ボードゥアン3世はガザの防備を固め、近辺に存在したファーティマ朝が占領するアスカロンの要塞に対する備えとし、1153年にはアスカロン砦そのものを攻め落とした(英語版)[3]。アスカロンを落としたことにより、王国南部とエジプトとの国境付近の安定化に成功したが、ファーティマ朝のエルサレム王国への積極的な侵攻遠征を誘発する原因にもなった。アスカロンはアーモリーの領有するヤッファ伯国に編入され、ヤッファ・アスカロン伯国となった。1152年には、北シリア地方から王国に侵攻したムスリム王朝の軍勢を撃破し、追い返した。

1156年、ボードゥアン3世はヌールッディーンとの平和条約の締結を強いられた。しかし1157年(1158年)冬、ボードゥアンは条約を無視してヌールッディーン支配下のシリアに侵攻を開始し、シャイザール(英語版)を包囲した。しかしシャイザールの領有権を巡り十字軍内でフランドル伯ティエリールノー・ド・シャティヨンが対立したことを受けて撤退に追い込まれた。しかしこの遠征で、ボードゥアンはかつてアンティオキア公国が領有していたハリム地域の奪還に成功し、また1158年にはヌールッディーンの撃破にも成功した。
ビザンツとの同盟

ボードゥアン王はエルサレム王国をある程度復興させたことにより、ビザンツ帝国王族との婚姻関係を要求できるほどにまで名声を集めた。1157年には、オンフロワ2世をビザンツ皇帝マヌエル1世コムネノスのもとに交渉のため派遣し、この交渉でボードゥアン3世とテオドラ・コムネナ(英語版、ギリシア語版)(マヌエル1世の姪)の結婚が取り決められ、この婚姻関係を通じてビザンツ帝国とエルサレム王国は同盟を締結した。この同盟はエルサレム王国よりもビザンツ帝国に対して利の多い同盟であった。この同盟において、ボードゥアンはアンティオキアにおいてビザンツ帝国の宗主権を認め、またボードゥアンが先に亡くなりテオドラが未亡人となった場合にはアッコの支配権が彼女に委譲されるという条件を承認したという。両国間の同盟締結に一役買ったテオドラであったが、彼女はアッコ市街でしか権威を主張することができず、アッコ市外ではなんの権威も有していなかったとされる。両者の結婚式は1158年9月に挙げられた。この時、ボードゥアンは28歳でテオドラは13歳であった。

両国間の関係は次第に良好なものとなっていき、1159年にはボードゥアン3世とマヌエル1世はアンティオキアで面会を遂げた。2人は良き友人となり、マヌエル1世はエルサレム王国からもたらされた西ヨーロッパ様式の服装や伝統を帝国に取り入れて、また馬上槍試合に参加してボードゥアンと一戦を交えたこともあったという。またこの時、ボードゥアンは馬から振り落とされて怪我をしたとされるが、マヌエル1世は個人的にボードゥアンを手当てしたという。その後、アンティオキア公ルノーがムスリムとの戦に敗れ捕虜に取られた際、ボードゥアンは摂政として再び公国を統治したが、この行為によりビザンツ皇帝マヌエルの気を害してしまうこととなった。マヌエル1世は先の同盟でアンティオキアにおける宗主権をボードゥアンに承認させていたにもかかわらず、ボードゥアンが構わず自らアンティオキアの統治を推し進めたからである。この行為に対抗して、1160年にマヌエル1世はボードゥアンの従姉妹でアンティオキア女公のマリー・ダンティオケと結婚し、アンティオキア公国との関係強化に努めた。この際、ボードゥアンは別の従姉妹メリザンド・オブ・トリポリ(英語版)との結婚を提案していたという。アンティオキアが独自にビザンツ帝国と関係を深めるのを防ぐためであったとされる。
崩御死の床につくボードゥアン3世

1161年にメリザンド王妃が亡くなり、1163年2月10日にベイルートにてボードゥアン3世は崩御した。当時の噂によれば、ボードゥアンはシリア正教会の医師により毒殺されたという。当時の歴史家ギヨーム・ド・ティールによれば、 『王は医師から渡された錠剤を飲むや否や、高熱を発し赤痢に罹り、そのまま結核を発症なさった。その後王のご病状が回復することはなかった。』 という。ボードゥアンはエルサレムへの帰還途中、トリポリに立ち寄り数ヶ月ほど滞在した。その後再びエルサレムに向かい出立したものの、病状が悪化し、遂にベイルートで息を引き取った。ボードゥアンの遺体は8日かけてエルサレムに運ばれた。多くの者が王の死を嘆き悲しんだという。当時18歳のテオドラ王妃は王の死を受けてアッコに帰還したが、ボードゥアンとテオドラは子供を授かることはなかった。エルサレム王位は弟のアーモリーに継承された。

テラ・サンクタ博物館(英語版)に現在展示されている大理石の装飾壁は、元々は聖墳墓教会に安置されていたボードゥアンか若しくは父フルク5世の墓碑であったとされている[4]
個人的性格

ギヨーム・ド・ティールはボードゥアン3世の人となりについて、以下のように記している。

「…He was taller than the average man, but his limbs were so well proportioned to his height that no feature seemed out of harmony with the whole. His features were comely and refined, his complexion florid, a proof of innate strength…His eyes were of medium size, rather prominent and sparkling. He had straight yellowish hair and wore a rather full beard on cheeks and chin. He was of somewhat full habit, although he could not be called fleshy like his brother or spare like his mother…」

ボードゥアンは教養のある、話し上手でずば抜けて知性にすぐれた国王であったとされる。また父王とは異なり、記憶力にも優れていた。彼は余暇を歴史書の読書で過ごし、王国の 慣習法 も熟知していた。教会財産を尊重し教会に対して課税することはなかったとされる。そしてボードゥアンは全ての階層の人々と友好的に接し、王との会話を希望する者とも、何気なく出会った者とも惜しげなく会話をしたという。また謁見を求める者が居れば、断ることなく謁見を認めたという。彼は若いころ、博打などの遊戯にハマり、また人妻と関係を持つなどしていたとされるが、テオドラと結婚してからはこれらの悪癖は改善され、王妃に誠実に接するようになった。ボードゥアン3世は彼の臣下の誰からも人気があったとされ、皆が彼を尊敬していた。ましてや彼の宿敵ヌールッディーンすらも彼を尊敬していたとされる。ヌールッディーンはボードゥアンの死の報を受けた際、 『フランクは素晴らしい王を失った。今のフランクには彼ほどの王はもう存在しない。』 と述べたという。
脚注^ Barber 2013, p. 217.
^ "549年/1154年に、父親のエデッサ征服が十字軍のきっかけとなったヌール・アル・ドゥルン・ゼンギは、その結果としてダマスカスを占領した。その後、彼はエルサレム王国に対する戦争の遂行に専念する国家をつくりあげた。同時に、ボードゥアン3世は貴族に対する権力を主張し、王国を対抗者らにとってより危険なものとした。"(Petry, Carl F. (1999). The Cambridge History of Egypt, Cambridge University Press, p. 213)
^ "...ボードゥアン3世は新たな行動の自由を得て、548年/1153年にアスカロンを征服した。"(Petry, Carl F. (1999). The Cambridge History of Egypt, Cambridge University Press, p. 213)
^ Boehm, Barbara Drake; Holcomb, Melanie (2016). Jerusalem, 1000?1400. Metropolitan Museum of Art. p. 155. .mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 978-1-58839-598-6. https://books.google.com/books?id=Ay30DAAAQBAJ&pg=PA155. "Portion of a Transenna Panel […] CTS-SB-09460" 


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