エルサレム王となったボードゥアン2世は、ボードゥアン1世時代まで王国の中枢を占めていたロレーヌ出身貴族に代えて、自らと血縁関係のある一族(ルテル家、モンレリ家、クルトネー家)や新参のブリズバール家を厚遇した[3]。1119年6月28日、義弟(妹の夫)でアンティオキア公国の摂政であったサレルノ伯ロジェ(ルッジェーロ)がアルトゥク朝のイル・ガーズィーとの戦いで戦死し、ボードゥアンが若年の公ボエモン2世の摂政をつとめることとなった。ボエモン2世とは娘アリックス(英語版)(アリス)と結婚させることで連携をさらに強めたが、1130年にボエモン2世が死去すると、自らの権力維持を狙う娘アリックスと対立した[4]。
@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}1123年4月18日、ボードゥアンは北シリアでイル・ガーズィーの甥バラクに捕まりディヤルバクルのカルプー城塞に幽閉され、帰還できたのは1年後のことであった。帰還後から1129年にかけて、ボードゥアンはアンティオキア公国やエルサレム王国の防衛のためアレッポやダマスカスの占領を試みたが、果たすことはできなかった。[要出典]
ボードゥアンには4人の娘がいたが男子がいなかったため、長女メリザンドを後継者とし、アンジュー伯フルク5世と結婚させた[5]。二人の間には1130年に後のボードゥアン3世が生まれ、ボードゥアンは1131年死去する際に、孫ボードゥアンをメリザンドとフルク5世の共同相続人とした[6]。ボードゥアンの死により、メリザンドとフルク5世が共同統治の形で王位を継承した。
ボードゥアン2世はエルサレム王に即位した後、岩のドームにあった自らのかつての宮殿の一角、通称「ソロモンの神殿」と呼ばれた場所を修道騎士会に提供し、それがテンプル騎士団の由来となった[7]。 エデッサ伯時代の1101年にアルメニアのメリテネ領主ガブリエルの娘モルフィアと結婚し、4女をもうけた。
子女
メリザンド
アリックス(英語版)(アリス、1110年頃 - ?) - アンティオキア公ボエモン2世と結婚。
オディエルヌ(1110年頃 - 1164年頃) - トリポリ伯レーモン2世と結婚。息子レーモン3世はエルサレム王国の摂政をつとめた。
イヴェット(英語版)(1120年頃 - ?) - ベタニアの聖マリア・聖マルタ修道院長
脚注
注釈^ 諸本は従兄弟(cousin)としているものが多いが、実際の血縁関係は不明である。[要出典]
^ このボードゥアン2世の継承までの流れはボードゥアンと在地貴族によるクーデターとも考えられている[2]。
出典^ A.ジョティシュキー、p. 440
^ A.ジョティシュキー、p.106, p.116
^ A.ジョティシュキー、pp. 116 - 117
^ A.ジョティシュキー、p. 120
^ A.ジョティシュキー、p. 118
^ A.ジョティシュキー、p. 119
^ E.ハラム、p.417
参考文献
R.グルッセ 『十字軍』 白水社、1954年
A.ジョティシュキー 『十字軍の歴史』 刀水書房、2013年
E.ハラム 『十字軍大全 年代記で読むキリスト教とイスラームの対立』 東洋書林、2006年
関連項目
エルサレム国王一覧
先代
ボードゥアン1世エデッサ伯
1110年 ? 1118年次代
ジョスラン1世
先代
ボードゥアン1世エルサレム王
1118年 ? 1131年次代
メリザンドとフルク
表
話
編
歴
エルサレム王
ブローニュ家
ゴドフロワ・ド・ブイヨン(聖墓守護者)1099-1100
ボードゥアン1世1100-1118
ルテル家
ボードゥアン2世1118-1131
メリザンド(共治)1131-1153
ガティネ家
フルク(共治)1131-1143
ボードゥアン3世1143-1162
アモーリー1世1162-1174
ボードゥアン4世1174-1185
アレラーミチ家
ボードゥアン5世1183-1186
ガティネ家
シビーユ(共治)1186-1190
ギー・ド・リュジニャン(共治)1186-1190/2
イザベル1世(共治)1190/2-1205
アンリ1世(共治)1192-1197
アモーリー2世(共治)1198-1205
アレラーミチ家
マリーア(共治)1205-1212
ブリエンヌ家
ジャン1世(共治)1210-1212
イザベル2世1212-1228
ホーエンシュタウフェン家
コンラート2世1228-1254
コンラート3世1254-1268
リュジニャン家
ユーグ1268-1284
ジャン2世1284-1285
アンリ2世1285-1291
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