ボードゥアン2世_(エルサレム王)
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エルサレム王となったボードゥアン1世には子供がいなかったため、自らの第一の後継者として兄ブローニュ伯ウスタシュ3世、さらに兄が継承できなかった場合の選択肢としてボードゥアンを指名していたが、1118年4月2日、ボードゥアン1世が死去した数日後にエルサレムにいたボードゥアン2世が在地貴族の支持により王位に就き、一方、フランスにいたウスタシュは弟の死の報を聞きエルサレムに向かったものの、ボードゥアンがエルサレム王位に就いたことを聞き引き返し、こうして、ボードゥアン2世のエルサレム王位は確定した[注釈 2]

エルサレム王となったボードゥアン2世は、ボードゥアン1世時代まで王国の中枢を占めていたロレーヌ出身貴族に代えて、自らと血縁関係のある一族(ルテル家、モンレリ家、クルトネー家)や新参のブリズバール家を厚遇した[3]。1119年6月28日、義弟(妹の夫)でアンティオキア公国の摂政であったサレルノ伯ロジェ(ルッジェーロ)がアルトゥク朝のイル・ガーズィーとの戦いで戦死し、ボードゥアンが若年の公ボエモン2世の摂政をつとめることとなった。ボエモン2世とは娘アリックス(英語版)(アリス)と結婚させることで連携をさらに強めたが、1130年にボエモン2世が死去すると、自らの権力維持を狙う娘アリックスと対立した[4]

@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}1123年4月18日、ボードゥアンは北シリアでイル・ガーズィーの甥バラクに捕まりディヤルバクルのカルプー城塞に幽閉され、帰還できたのは1年後のことであった。帰還後から1129年にかけて、ボードゥアンはアンティオキア公国やエルサレム王国の防衛のためアレッポダマスカスの占領を試みたが、果たすことはできなかった。[要出典]

ボードゥアンには4人の娘がいたが男子がいなかったため、長女メリザンドを後継者とし、アンジュー伯フルク5世と結婚させた[5]。二人の間には1130年に後のボードゥアン3世が生まれ、ボードゥアンは1131年死去する際に、孫ボードゥアンをメリザンドとフルク5世の共同相続人とした[6]。ボードゥアンの死により、メリザンドとフルク5世が共同統治の形で王位を継承した。

ボードゥアン2世はエルサレム王に即位した後、岩のドームにあった自らのかつての宮殿の一角、通称「ソロモンの神殿」と呼ばれた場所を修道騎士会に提供し、それがテンプル騎士団の由来となった[7]
子女

エデッサ伯時代の1101年にアルメニアのメリテネ領主ガブリエルの娘モルフィアと結婚し、4女をもうけた。

メリザンド(英語版)(1105年 - 1161年) - エルサレム女王、アンジュー伯フルク5世と結婚。

アリックス(英語版)(アリス、1110年頃 - ?) - アンティオキア公ボエモン2世と結婚。

オディエルヌ(1110年頃 - 1164年頃) - トリポリ伯レーモン2世と結婚。息子レーモン3世はエルサレム王国の摂政をつとめた。

イヴェット(英語版)(1120年頃 - ?) - ベタニアの聖マリア・聖マルタ修道院長

脚注
注釈^ 諸本は従兄弟(cousin)としているものが多いが、実際の血縁関係は不明である。[要出典]
^ このボードゥアン2世の継承までの流れはボードゥアンと在地貴族によるクーデターとも考えられている[2]

出典^ A.ジョティシュキー、p. 440
^ A.ジョティシュキー、p.106, p.116
^ A.ジョティシュキー、pp. 116 - 117
^ A.ジョティシュキー、p. 120
^ A.ジョティシュキー、p. 118
^ A.ジョティシュキー、p. 119
^ E.ハラム、p.417

参考文献

R.グルッセ 『十字軍』 白水社、1954年

A.ジョティシュキー 『十字軍の歴史』 刀水書房、2013年

E.ハラム 『十字軍大全 年代記で読むキリスト教とイスラームの対立』 東洋書林、2006年

関連項目

エルサレム国王一覧

先代
ボードゥアン1世エデッサ伯
1110年 ? 1118年次代
ジョスラン1世

先代
ボードゥアン1世エルサレム王
1118年 ? 1131年次代
メリザンドとフルク










エルサレム王
ブローニュ家

ゴドフロワ・ド・ブイヨン(聖墓守護者)1099-1100

ボードゥアン1世1100-1118

ルテル家

ボードゥアン2世1118-1131

メリザンド(共治)1131-1153

ガティネ家

フルク(共治)1131-1143

ボードゥアン3世1143-1162

アモーリー1世1162-1174

ボードゥアン4世1174-1185

アレラーミチ家

ボードゥアン5世1183-1186

ガティネ家

シビーユ(共治)1186-1190

ギー・ド・リュジニャン(共治)1186-1190/2

イザベル1世(共治)1190/2-1205

アンリ1世(共治)1192-1197

アモーリー2世(共治)1198-1205

アレラーミチ家

マリーア(共治)1205-1212

ブリエンヌ家

ジャン1世(共治)1210-1212

イザベル2世1212-1228

ホーエンシュタウフェン家

コンラート2世1228-1254

コンラート3世1254-1268

リュジニャン家

ユーグ1268-1284

ジャン2世1284-1285

アンリ2世1285-1291

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