ボーイ・バンドではないが、ビートルズが若い少女を対象とした方法や外見や音楽の慣例を後輩達に伝授した。映画『ア・ハード・デイズ・ナイト』やノベルティ・グッズを作成するという宣伝方法は、恐らくボーイ・バンドにとって最初の大規模な市場調査だった。これがジャクソン5やモンキーズといったボーイ・バンドにとってプロトタイプになった。ビートルズからボーイ・バンドが採用した音楽的慣例は、その大半が彼らの市場性と結合されるキャッチーなポップ・フック、メロディー、そして調和だった。彼らの市場性はジョン・レノンやポール・マッカートニーの人格、もしくは彼らの色気というようにメンバー全員に何かがあるというアイデアに基付いていた。
ビートルズはロック・バンドの楽器を使ったボーイ・バンドに間接的な影響を与えた。 この先例は、テレビ番組に出演している間にテレビ・プロデューサーバート・シュナイダー(英語版)やボブ・ラフェルソンが4人のメンバーに覚えやすいポップな楽曲を演奏させた時だった。彼らが産業化されたボーイ・バンドの最初の例であったので、モンキーズはしばしばボーイ・バンドの間の最初の先駆者と思われている。ドン・カーシュナーのマネージメントによって1965年に結成されて、グループは彼らに対するカーシュナーの影響力に不満を持つようになり、そして、彼らは1970年には自分達だけで働いて2年後に独立した。 「ボーイ・バンド」という言い方は、ほとんど1990年代に登場したグループと関係しているが、その他の先例(すでに記載されたグループは別として)がポップスの歴史を通して存在する。このジャンルは、英米以外の言語と文化にコピーされた。プエルトリコのボーイ・バンドメヌードは若い世代のラテン系の聴衆を対象とし、1977年に結成された。メヌードはボーイ・バンドの中では珍しい慣例を持って居た。メンバーが16歳になって身長が高くなりすぎ、声が変化すると脱退させられ新しいメンバーに取って代わられた。メヌードのメンバーは基本的に12歳から14歳までだった。 ベイ・シティ・ローラーズは1970年代半ばに最も有名だったスコットランドのポップ・バンドだった。ブリティッシュ・ヒット・シングルズ・アンド・アルバムズ
1970年代と1980年代: メヌード、ニュー・エディション、そしてニュー・キッズ・オン・ザ・ブロック
アメリカ合衆国では、メンバー全員が彼ら独自の音楽を演奏していたにもかかわらず、クリーブランドを拠点としたパワー・ポップのグループラズベリーズは一般的に「10代の音楽活動」として解釈された。ヴォーカリストエリック・カルメンは、「あなたには演奏しているステージの前に1000人の鋭く叫びたてる女の子がいて、部屋の裏手に10人の非常に厳しいロック評論家がいて、彼らは『そうだ、私は我々にはこれが分かると思う』と言うだろう、そして残念なことに、アルバムを買って大きなレコード市場であなたたちをかなり大きな商品にしたポットを吸う18歳の群衆は我々に何も持って来はしない。人々が我々を好むことはヒップではなかった。なぜなら彼らの小さな姉妹が我々を好んだからだ」と後に述べた[4]。
ニュー・エディションは1978年にボストンで結成されたR&Bのグループだった。このグループは1980年代に人気の絶頂を極めた。彼らはアメリカ合衆国に於いて1980年代や1990年代にボーイ・バンドの活動の祖先だった。このグループはほとんどの楽曲をクインテットとして収録した。
1982年に結成されたノルウェーのバンドA-haが最初の大陸ヨーロッパのボーイ・バンドとして1985年にシングル『Take on Me』で全米1位になった。