ボローニャ
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人口
統計

ボローニャの2007年の人口は37万2256人だった。そのうち46.7%が男性、53.3%が女性だった。若年層は人口の12.86%(イタリア平均18.06%)、年金生活者は27.02%(イタリア平均19.94%)だった。平均年齢は51歳(イタリア平均42歳)である。2002年から2007年までの5年間での人口増加率は0%(イタリア平均3.56%)である[10]。最近[いつ?]の出生率は人口1000人に対し8.07人(イタリア平均9.45人)である。

2006年の調査では、人口の91.88%がイタリア人だった。最大の移民グループはルーマニア人アルバニア人である。その他フィリピン人の多い東アジア系2.82%、バングラデシュ人の多い南アジア系1.39%である[11]

大ボローニャ都市圏の人口は100万人である。
歴史
古代

ボローニャの周辺地域では、紀元前9世紀ごろには定住民が暮らすようになった。かれらの文化はヴィッラノーヴァ文化(英語版)と呼ばれ、紀元前6世紀ころまで続く。なお、この「ヴィッラノーヴァ文化」という名称は、19世紀にボローニャ近郊のヴィッラノーヴァ(カステナーゾ市)で発掘調査が行われたことに由来する。紀元前7世紀から紀元前6世紀にかけて、この地域にはエトルリアの影響が及び、住民もウンブリ人(英語版)からエトルリア人に移り変わった。エトルリア人の時代、町はフェルシナ(Felsina)の名で呼ばれた。

紀元前4世紀、ボローニャとその周辺地域は、ポー川以北からやってきたケルト人ガリア人)の一部族・ボイイ族によって征服された。短い抗争の期間を経て、ボイイ族はこの地に定着してエトルリア人と混合した。近代の歴史学者はかれらの文化をガリア=エトルリア文化と呼んでいる。アペニン山麓のモンテ・ビベーレ(イタリア語版)(モンテレンツィオ町)はその代表的な遺跡である。ボイイ族による支配は、紀元前196年にローマ人によって破られるまで続いた。

ボイイ族をはじめとするガリア人はテラモンの戦い紀元前225年)でローマ人に大敗を喫し、やむをえずローマ人の影響を受け入れることになった。しかし、ポエニ戦争に際してガリア人はローマに反旗を翻し、アルプスを越えたハンニバルを支援して歩兵を提供した。カルタゴ人の敗北は、ガリア人の自由の終わりでもあった。ローマ人はガリア人の多くの町や村を破壊した(モンテ・ビベーレもこの時に破壊された)。

破壊にした町に代わってローマ人によって紀元前189年頃に植民市であるボノニア(Bononia)の都市を建設した。この植民市への移住者の中には、執政官(コンスル)のルキウス・ウァレリウス・フラックスに率いられたラテン人の3000世帯が含まれていた。ガリア人はローマ人の中に吸収されたが、かれらが使っていたケルト語の影響はボローニャ方言の中に残っている。紀元前187年にはアエミリア街道が建設されるとボノニアは交通の要衝となり、フラミニア・ミノール街道(イタリア語版)によってアレッツォと、アエミリア・アルティナーテ街道によってアクイレイアと結ばれた。

紀元前88年、市はムニキピウム(municipium)となった。市は6つのカルディ(cardi)と8つのデクマニ(decumani、交差する道路)で構成された直線的な街路設計が行われ、これらは今も見分けられる。ローマ帝国時代の都市の人口は、1万2000人ないし3万人であった。最盛期にはイタリア第2の都市にして帝国内でも最重要の都市の一つであり、多種多様な神殿、公共浴場、劇場、アリーナがあった。地理学者ポンポニウス・メラ(英語版)は、ボロニアをイタリア内の裕福な(opulentissimae)5都市に含めた。クラウディウス帝時代に市は火事で損傷したが、ネロが紀元1世紀に再建した。

ローマ帝国の衰亡後、この地はオドアケル東ゴート王国テオドリック東ローマ帝国の支配下に置かれた。ランゴバルド王国の版図に収まった。ランゴバルド人はこの都市を軍事拠点として用いた。774年フランク王国カール大帝によってこの都市は占領され、ローマ教皇に寄進された。
中世

長い衰退の後、ボローニャは5世紀、ペトロニウス(のちに列聖)が司教を務めた時代に生まれ変わった。ペトロニウスは聖ステファノ教会を建てた。

ローマ帝国衰退後、ボローニャはポー平野にあるラヴェンナ総督府の辺境要塞となり、城壁の列で守られていた。しかし古代ローマ都市の廃墟は囲まれなかった。728年、市はロンゴバルド族の王リウトプランドによって攻略され、ロンゴバルド王国の一部となった。ゲルマン人征服者たちは聖ステファノの教会複合施設近郊で、アッディツィオーネ・ロンゴバルダと呼ばれる地区をつくった。この地区には786年カール大帝が滞在した。

11世紀、ボローニャは自由中世コムーネとして再成長を始め、1164年には神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世に対抗するロンバルディア同盟へ加わった。1088年、ストゥディオと呼ばれるボローニャ大学が創立された。これが今やヨーロッパ最古の大学となり、イルネリウスのような名の知られた中世の学者、ダンテ・アリギエーリジョヴァンニ・ボッカッチョフランチェスコ・ペトラルカといった学生らを誇る。12世紀、市の拡大は新たな城壁一列を必要とし、別の物は14世紀に完成した。

1256年、ボローニャは天国法(Legge del Paradiso)を宣伝した。この法律は、公共の資金を利用して封建的農奴廃止と奴隷の解放を訴えていた。当時の市中心部はおよそ180という塔で埋まっていた。この塔は有力者家族によって建てられ、他には有名な公共の大邸宅、教会、修道院・寺院があった。1270年代のボローニャの政治は、ポデスタ(英語版) (官職名)として仕えていたジェノヴァ出身の政治家・外交官ルケット・ガッティルシオ(英語版)によって支配されていた。当時のイタリア都市の大半同様、ボローニャは教皇派と皇帝派に関係した内部抗争によって引き裂かれていた。この内部抗争は、1274年、皇帝派のランベルタッツィ家の追放が引き金となった。

1294年、人口の多い順に、コルドバパリヴェネツィアフィレンツェミラノに次いで、ボローニャは欧州で第5か第6の大都市で、6万人か7万人の人口があった。1325年のモデナによるザッポリーノの戦いでの激突後、ボローニャは衰退を始め、14世紀初頭にはローマ教皇の保護を依頼していた。1348年、黒死病大流行の最中、市の人口およそ3万人が死んだ。15世紀のベンティヴォーリョ家のグロシュ 有名なボローニャの塔(イタリア語版) アジネッリ塔(イタリア語版)
ルネサンス

タッデオ・ペポリ(治世: 1337年?1347年)による幸福な支配の後、ボローニャはミラノのヴィスコンティ家のものになった。しかし、1360年枢機卿ジル・デ・アルボルノスの勢力圏だった教皇領へと返還された。続く年月には1377年のような共和制政権の交替が見られた。ボローニャの有力貴族らが互いに血なまぐさい戦いを続けるのに忙しい間、この政権はサン・ペトロニオ大聖堂(イタリア語版)の建設、メルカンティのロッジア、そして教皇庁またはヴィスコンティ家復古主義者らへの処置に責任を負った。15世紀半ばに、ベンティヴォーリオ家がボローニャ支配権を獲得し、サンテ・ベンティヴォーリオ(治世: 1445年?1462年)、ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ(英語版)(治世: 1462年?1506年)が支配した。この時代は、著名な建築家や画家が存在し、彼らがボローニャを真の芸術都市にした、繁栄の時代だった。ルネサンス時代、ボローニャは、秀でた女性であればどんな専門的職業にも就けた唯一のイタリア都市だった。ボローニャの女性はイタリア他都市の女性に比べて大きな自由を持っていた。一部の女性は、大学で単位を得る機会すら持っていたのだ。

ジョヴァンニ2世の治世が1506年で終わると、ローマ教皇ユリウス2世軍はボローニャを包囲し、自分の宮殿用にと芸術作品を略奪した。この頃から、ボローニャは教皇領の一部になり、枢機卿に支配され、毎回2ヶ月間選出されるゴンファロニエーレ(gonfaloniere、裁判官)が議員となり、8人の長老コンスルがそれを補助した。1530年、サン・ペトロニオ大聖堂正面で、神聖ローマ皇帝カール5世が教皇クレメンス7世によって戴冠した。


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