ボロジノの戦い
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それらの騎兵軍団は角面堡に対面していたダヴ―の第1歩兵軍団の内コンパン[12]の師団によって支援されていた。同時にポニャトフスキの歩兵部隊が南方からその陣地を攻撃した。ロシア軍はクトゥーゾフが個人的に命じるまで撤退を拒否したので戦闘は激しく、極めて猛烈になった[5]。死傷、大陸軍4,000?5,000人、ロシア軍6,000人の犠牲の上に大陸軍がシェヴァルジノ角面堡を占領した。[13]。小さな角面堡は破壊され、両軍の死傷者で覆い尽くされた[14]

西方からの予期せざる大陸軍の進軍とシェヴァルジノ角面堡の陥落によってロシア軍の陣形は壊乱した。防御陣地の左側面が崩壊したことによって、Utitsa村(現在のru:Утицы)[15]を中心とする新陣地を築きつつ、ロシア軍は東へ退却した。このようにロシア陣地の左側面は側面攻撃の格好の餌食となった。
経過

ロシア軍はボロジノに陸軍部隊120,000と野砲640門を集結させた。他に予備兵力として民兵(Ополчение)が後方にあったが、戦闘には参加しなかった。ロシア軍はバルクライの指揮する右翼をカラチャ川沿いに配置し、中央部をラエフスキー(ロシア語版、英語版)が守る角面堡、左翼をバグラチオンが守る突角堡、その外側を森林で防御する態勢であった。

大陸軍は兵力133,000、野砲587門を集結させ、北からウジェーヌの第4軍団、ネイの第3軍団、ジュノーの第8軍団、ダヴーの第1軍団、ポニャトフスキの第5軍団を配置した。戦闘開始前、ダヴーはロシア軍の左翼を南から迂回する作戦案を提言したが、ナポレオンはロシア軍左翼への正面攻撃を命じた。これはナポレオンらしからぬ単純過ぎる作戦計画であるとも言われるが、ロシア軍を1日で撃滅する決定的勝利を企図したものとも言われる。なお、この日のナポレオンは高熱に冒されており、このことがナポレオンの指揮の不徹底さや作戦計画の単調さの理由であるとも言われる。

9月7日午前6時、大陸軍はロシア軍左翼へ向けて前進を開始した。ラエフスキー角面堡へのウジェーヌ軍団の攻撃は大きな損害を出して失敗し、その他の軍団の前進も停滞させられた。午前10時までに戦闘は甚大な犠牲を伴う消耗戦の様相を呈していた。大陸軍ではネイが負傷し、ロシア軍ではバグラチオンが瀕死の重傷を負った。

正午過ぎ、バグラチオン突角堡に対してミュラが歩兵と騎兵の合同による突撃を仕掛け、これを奪取した。しかしロシア軍も隣接する高地から猛烈な砲撃を浴びせた。ミュラはナポレオンに対して近衛軍団を増援に投入するよう要請したが、この日決断力を欠いていたナポレオンは要請を拒否した。午後3時、ラエフスキー角面堡への大陸軍の攻撃もようやく実を結び、コランクールの騎兵連隊が突入に成功した。コランクールは戦死したが、ラエフスキー角面堡は占領された[16]

こうしてロシア軍の第一線陣地は攻略されたが、その背後にはバルクライの右翼部隊が戦線を構築し、それ以上の前進を阻んだ。ロシア軍の体勢は全く崩れていなかった。午後5時までに両軍とも弾薬を消耗し尽くし、戦いは終息した。戦死傷者は大陸軍33,000名、ロシア軍44,000名に及んだ。両軍ともに決定的な勝利を得られないまま、クトゥーゾフはロシア軍に撤退を命じた。
影響

ロシア軍の撤退によって道は開かれ、大陸軍は9月14日にモスクワに入城した。しかしナポレオンは会戦における決定的勝利をついに得られないままであった。陸軍部隊が健在のロシア皇帝アレクサンドル1世は和平交渉を拒否し、10月19日、ナポレオンはモスクワからの撤退を余儀なくされた。その帰途、大陸軍は冬のロシアで壊滅する。

ボロジノの戦いはトルストイの『戦争と平和』でもクライマックスの一つとして描写されている。

ロシア帝国とその継承国であるソビエト連邦ロシア連邦では愛国心を鼓舞する象徴として扱われている。1839年には皇帝ニコライ1世が親臨して記念碑の完成式典が開かれ、1912年には博物館が設けられ(現在のボロジノ国立軍事歴史博物館)、200周年の2012年秋には記念行事が実施され、2022年5月19日にも再現イベントが催された[17]
脚注^ 現在の地図を見る上での注意点: このボロジノの南東約4キロメートルに同じボロジノと言う名前の村がある(便宜上、「ボロジノ新村」と表記する)。ボロジノ新村の方が集落として大きく、したがって目立つので要注意。ボロジノ新村はボロジノ駅(ロシア語版)開駅(1870年)後、その周辺が発展したものでボロジノの戦い当時、村は無かった。
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ボロジノ .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯55度31分37秒 東経35度49分16秒 / 北緯55.52694度 東経35.82111度 / 55.52694; 35.82111 ru:Бородино (деревня, Можайский район)

ボロジノ新村 北緯55度29分42秒 東経35度51分21秒 / 北緯55.49500度 東経35.85583度 / 55.49500; 35.85583 ru:Бородино (посёлок, Можайский район)

^ 訳注: 英語: Shevardino Redoubt、ロシア語: Шевардинский редут
^ 訳注: ロシア語: Шевардиноはボロジノの南西約3キロメートルにある村の名前。古戦場跡にロシアとフランス2つのモニュメントが建立されている。ロシアのモニュメント北緯55度29分57秒 東経35度47分48秒 / 北緯55.499099度 東経35.796556度 / 55.499099; 35.796556、フランスのモニュメント北緯55度30分00秒 東経35度47分59秒 / 北緯55.500054度 東経35.799721度 / 55.500054; 35.799721
^ a b Mikaberidze, p.33.
^ a b Le Vinh Qu?c (ch? bien), Nguy?n Th? Th?, Le Ph?ng Hoang, Cac nhan v?t L?ch s? C?n ??i, T?p II: Nga. NXB Giao d?c, Tp. H? Chi Minh 1997; Ch??ng IV: Cutud?p.


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