ボリビア
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1559年 チャルカス(後のスクレ)に聴問庁(アウディエンシア)が設置される。このころから独立まで現ボリビアの地域は「アルト・ペルー(高地ペルー、上ペルー)」と呼ばれる。

1559年 東部のチャコ地方にサンタ・クルス・デ・ラ・シエラが建設される。

1569年 ペルー副王フランシスコ・デ・トレドの統治が始まる。銀山採掘のためにポトシは人口十万人を超える都市として発展し(当時のロンドンより大きい)、銀採掘のためにミタ制によりかき集められたインディオは、過酷な労働と病気で次々に死んでいった。

18世紀 ポトシの銀が急速に枯渇する。

1776年 アルト・ペルーがペルー副王領からリオ・デ・ラ・プラタ副王領に転入され、以降経済や司法が副王首府のブエノスアイレスに従属することになる。スペイン本国生まれ(ペニンスラール)の少数支配に反対して現地生まれのスペイン人(クリオーリョ)による反抗運動が起こった。

1778年 ブエノスアイレス港が正式に開港し、以降アルト・ペルーの海外貿易がブエノスアイレスを通じて行われるようになる。

1780年 ペルーでトゥパク・アマルー2世が植民地政府に反乱を起こす。

1781年 ペルーのトゥパク・アマルー2世と呼応して、レパルティミエントやミタ制の重い負担の廃止を求めた、アイマラ人トゥパク・カタリによる反乱蜂起があったが、これは鎮圧された。鎮圧後、インディオに対する当局の弾圧は強まった。トゥパク・カタリは現在もボリビアの国民的英雄になっている。

解放戦争から独立まで「近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立」および「ボリビア独立戦争」も参照

1809年 ラパスとチュキサカでクリオーリョによる独立運動が起こる(ラパス革命(スペイン語版、英語版)、チュキサカ革命(スペイン語版、英語版))。ボリビア最初の独立運動であり、キトと共にラテンアメリカで最も早かった。

1810年 ラパスで起きていた革命運動は、ペルー副王アバスカルの指導によりすぐに王党派に鎮圧され、革命評議会のペドロ・ドミンゴ・ムリーリョは処刑された。その後リオ・デ・ラ・プラタ連合州が独立派に支援軍を送るがことごとく王党派軍に打ち破られた。

1816年 トゥクマンの議会(英語版)により、リオ・デ・ラ・プラタ連合州が独立を宣言する。アルト・ペルーの代表者も出席した。

1823年 再び独立戦争始まる。

1824年 シモン・ボリバルアントニオ・ホセ・デ・スクレの率いるベネズエラからのコロンビア共和国の解放軍により、副王ホセ・デ・ラ・セルナ(チェ・ゲバラの先祖)の率いる王党派軍がアヤクーチョの戦い(英語版)で壊滅。インディアス植民地の最終的な独立が確定する。

1825年8月6日 ボリバルの協力により、スクレ元帥がアンドレス・デ・サンタ・クルスと共に、アルト・ペルーをスペインから解放した。アルト・ペルーの支配層はそれまで同一の行政単位を構成していたペルーやアルゼンチンとの連合を望まなかったため、チュキサカでアルト・ペルー共和国の独立が宣言された。8月26日ボリビア共和国と改名した。

独立から混沌へ第2代大統領にして「アヤクーチョ大元帥」
アントニオ・ホセ・デ・スクレペルー・ボリビア連合の領域

1826年8月 アルト・ペルーはボリバルの名にちなんで「ボリビア」という国名になり、正式に独立した。11月19日、ボリバル憲法を公布する。同時に首都も憲法上はチャルカスが改名されてスクレとなった。12月9日、スクレが終身大統領に就任する。自由主義的な改革がなされるが、保守派の恨みを買い、ベネズエラ人の支配を嫌う声も囁かれた。

1828年 スクレ大統領が侵攻してきたペルーのアグスティン・ガマーラ(英語版)を打ち破るが、すぐにガマーラと結んだ国内保守派の陰謀により大統領を辞任し、キートヘ亡命(実はサンタ・クルスも関わっていたといわれている)。

1829年 ボリバルの推薦により、5月25日、サンタ・クルスが大統領に就任する。サンタ・クルスはインカ帝国の後継者を自称し、大学、港湾、鉱山など国内の開発を続け、軍備を強化した。保護貿易を導入して国内の綿産業を保護した。

1836年 大統領のアンドレス・デ・サンタ・クルスがアグスティン・ガマーラを破ってペルーを併合し、ペルー・ボリビア連合を打ち立てる。連合は三州に分けられ、首都は南ペルー共和国タクナに置かれた。

1839年 連合に脅威を抱いたチリ(既に死去していたディエゴ・ポルターレスの影響が大きい)とアルゼンチンフアン・マヌエル・デ・ロサス軍の攻撃により連合は崩壊。これによりサンタ・クルスが追放されるとボリビアは無政府状態に陥った。

1841年 国内の混乱の中、サンタ・クルス派のホセ・バリビアンがペルーから侵攻してきたアグスティン・ガマーラをインガビの戦い(英語版)で打ち破り、ガマーラは戦死した。以降、ペルーとボリビアの合邦を望む動きはなくなった。

1847年 メスティーソの軍人マヌエル・イジドロ・ベルス(スペイン語版)の反乱によりバリビアンが亡命する。

1848年 ベルスが大統領になる。
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