1905年から1906年にかけてエスエル第一回党大会が開催されると、戦闘団代表として党大会に参加し、党を社会主義思想の普及に従事する部門とテロを担当する組織に分党することを主張した。党大会後、アゼフとともに戦闘団再建に着手するが、内務大臣ヴャチェスラフ・プレーヴェ、モスクワ総督セルゲイ大公の暗殺事件後、セバストポリで逮捕される。裁判直前に逃亡に成功、欠席裁判のまま、死刑判決を受ける。
1908年アゼフがスパイであることが発覚。サヴィンコフは戦闘団の指導者となり、首相として革命派に対する徹底的な弾圧で知られたストルイピンの暗殺やテロ遊撃隊の結成を計画するが、これは成功しなかった。第二回党大会で戦闘団代表を辞任し、その後、パリに移る。以後もニコライ2世の暗殺計画を準備するが未遂に終わった。 1914年第一次世界大戦が勃発すると、義勇兵としてフランス軍に志願した。大戦中、サヴィンコフは愛国主義の立場をとるようになり、1917年二月革命でニコライ2世が退位し、ロマノフ王朝が崩壊、臨時政府が樹立された報に接し、大きな喜びを得た。同年4月チェルノフらとともにロシアに帰国して、第7軍、南西戦線コミッサールとして臨時政府に参加。サヴィンコフは、勝利のための戦争継続を積極的に主張し、陸海軍大臣アレクサンドル・ケレンスキーを支持した。 同年7月ケレンスキーの下で陸軍次官に就任した。その後、ケレンスキーが首相に就任すると、ラヴル・コルニーロフ将軍を最高総司令官にするように要請している。同年9月コルニーロフ将軍が反乱を起こすが、サヴィンコフは関与が取りざたされた。サヴィンコフは反乱事件直後、ペトログラード臨時総督に就任するが、結局、臨時政府の一切の役職から解任された。 彼はコルニーロフ事件
ロシア革命
9月22日の全ロシア民主会議(ロシア語版)で、サヴィンコフはクバン州の代議員としてロシア共和国臨時評議会(ロシア語版)に選出され、その事務局に配属された。
1917年10月レーニン率いるボリシェヴィキが武装蜂起して十月革命が起こる。サヴィンコフは、冬宮の包囲網の突破を試みた。その後、プスコフに逃れたケレンスキーと合流しペトログラード奪還を試みたが失敗に終わった。12月末に「自由・祖国擁護同盟(ロシア語版)」を結成しモスクワに潜伏しながら、ソビエト政権打倒を進める。サヴィンコフは、レーニンとトロツキーの暗殺計画(レーニン暗殺未遂事件(ロシア語版))やヤロスラヴリ、ルイビンスク、ムルマンスクでの武装蜂起を企てたが失敗した。
ロシア内戦ケレンスキー陸軍大臣と側近たち。左からバラノフスキー(ロシア語版)中佐、ヤクボヴィチ(ロシア語版)少将、サヴィンコフ、ケレンスキー、トゥマノフ(ロシア語版)大佐コルニーロフ将軍(中央)とサヴィンコフ(左)
彼はボリシェヴィキの十月革命に反対した。彼は、冬宮殿で包囲されている臨時政府を助けようとし、ミハイル・アレクセーエフ将軍と交渉した。彼はガッチナへ向かい、そこでピョートル・クラスノフ将軍の別働隊のもとで臨時政府の代議員に任命された。その後、ロシア内戦が勃発すると白衛軍のロシア義勇軍(ロシア語版)に一兵卒として入隊する。
1918年2月から3月にかけて、彼は衛兵将校の組織に基づいてモスクワに反革命地下組織自由・祖国擁護同盟(ロシア語版)を創設した[2]。この組織の目的は、ソビエト政権を転覆し、ロシアに軍事政権を樹立し、ドイツとの戦争を継続することであった。他にもいくつかの準軍事組織が作られ、5月末、モスクワでの陰謀は摘発され、その参加者の多くが逮捕された。
1918年夏、ウラジーミル・カッペル(ロシア語版)将軍が占領したカザンに逃れたが、そこには留まらなかった。しばらくの間、彼はカッペルの分遣隊に所属し、その後ウファに赴き、しばらくの間、臨時全ロシア政府の外務大臣候補とみなされた。同政府の代表として、フランスへの軍事任務に出発した。(ウラジオストク、日本、シンガポール、インドを経由する遠路)そこで、彼はロシアの亡命者協会の役職に就くとともに、アレクサンドル・コルチャーク(コルチャック)提督の外交使節団長として、ヨーロッパ各国に派遣され、コルチャーク軍に対する西欧各国の援助を要請した。サヴィンコフはあらゆる同盟国を求め、ポーランドのユゼフ・ピウスツキやイギリスのウィンストン・チャーチルと個人的に会談した。第一次世界大戦が終結し、パリ講和会議が開催されると、サヴィンコフは、ジョルジュ・クレマンソー仏首相、ロイド・ジョージ英首相などと会談を持っている。
1920年ポーランド・ソビエト戦争が勃発すると、サヴィンコフは赤軍を撃退すべく、国家元首ピウスツキの誘いでポーランドへ赴いた。ポーランドでは、赤軍の捕虜を中心に歩兵連隊と騎兵隊部隊を編成した。