ボリス・ニコラエヴィチ・エリツィン(ロシア語: Бори?с Никола?евич Е?льцин 発音[ヘルプ/ファイル]、ラテン文字表記の例:Boris Nikolayevich Yel'tsin、1931年2月1日 - 2007年4月23日)は、ソビエト連邦及びロシア連邦の政治家。ロシア連邦の初代大統領(1991年 - 1999年)および同国初代ロシア連邦閣僚会議議長(首相)(1991年 - 1992年)など、その他ソビエト連邦でも数多くの役職を務めた。 第10回および第11回ソビエト連邦最高会議副議長(1979年 - 1989年)、ソビエト連邦最高会議員(1984 - 1988年)、ソビエト連邦人民代議員副議長、ソビエト連邦最高会議民族評議会委員(1989年 - 1990年)、ロシア共和国副首相兼最高会議議長(1990年 - 1991年)、ソビエト連邦共産党党員(1961年 - 1990年)、ソビエト連邦共産党中央委員(1981年 - 1990年)、党内では、スヴェルドロフスク州委員会第一書記(1976年 - 1985年)、ソビエト連邦共産党中央委員会書記(1985年 - 1986年)、モスクワ市委員会第一書記(1985年 - 1987年)、ソビエト連邦共産党中央委員会政治局候補(1986年 - 1988年)の職を歴任。 エリツィンは、ロシアで民選で選ばれた初の国家元首として歴史に名を刻み、ロシアの社会・政治・経済構造を急進的に改革した。大統領在任中、ソ連8月クーデターに対する抵抗と、ソビエト連邦からのロシアの離脱を呼びかけて民主化(=ソビエト連邦の崩壊)に導いたことへの評価がある一方、ロシアの威信の低下、腐敗した縁故資本主義、議会と対決する強権的な政治手法、チェチェン紛争の泥沼化への批判もあった[1]。また、酒好きでも知られており、訪米中に泥酔してパンツ一丁でタクシーに乗ろうとしたりアスカル・アカエフキルギスタン大統領(当時)の頭をローシュキ(ロシアの伝統楽器の一種)で叩いた等飲酒に関する豪快なエピソードが多く知られている。 多くの専門家によると、エリツィンの治世において、ロシアは管理民主制と大統領に強い権限が集中する共和制国家の成立[2][3][4][5][6][7][8]、半権威主義体制が確立された。 1961年にソビエト連邦共産党に入党する。1968年から党の活動に専従し、スヴェルドロフスク州地方委員会に異動し、建設部門の責任者となる。1975年にスヴェルドロフスク州地方委員会書記に選出され、同地方の産業開発を担当した。彼の前任者であるヤーコフ・リャボブ
概要
来歴・人物
青年期(ロシア語版
スヴェルドロフスクでの勤務
1976年、エリツィンはスヴェルドロフスク州中央委員会政治局の推薦により、彼はスヴェルドロフスク党第一書記(スヴェルドロフスク州の実質的な指導者)に選出され[10]、1985年までその地位にあった。エリツィンの命により、スヴェルドロフスクには地方委員会のために市内で最も高い23階建てのビルが建設された[11]。1970年代後半には、スヴェルドロフスクと州北部を結ぶ高速道路の建設[12]や、バロック様式から新しい住宅への住民の再定住を促進した。なお、1977年には党の指示により旧ロシア皇帝ニコライ2世一家殺害現場のイパチェフ館を取り壊している。エリツィンは、一連のスヴェルドロフスク州での働きぶりを評価され、ソビエト連邦軍(陸軍)の予備役大佐の軍事階級を与えられた。レーニン勲章の旗を授与するエリツィン。(1985年)
1978年から1989年にかけて、スヴェルドロフスク州セロフ選挙区選出のソビエト連邦最高会議副議長に就任する[13][14]。また、スヴェルドロフスク州での働きぶりをレオニード・ブレジネフに評価され、1981年に党中央委員となり、1990年に党を去るまで同委員会の委員を務めた。
ミハイル・ゴルバチョフの書記長就任後、1985年に党中央委員会政治局員候補兼書記に就任。エゴール・リガチョフの推薦により、モスクワに赴任し、4月には中央委員会建設部の責任者となり、1985年6月には中央委員会建設担当書記に選出された。 ブレジネフ派の大物であるヴィクトル・グリシンがモスクワ市の党第一書記を解任されると、1985年12月に後任のモスクワ市の党第一書記に就任した。就任後、彼は首都の党組織とソビエト機構の幹部粛清を開始し、多くのモスクワ市委員会の幹部と地区委員会の第一書記を解任した。また、個人的に店舗や倉庫を検査し、モスクワで食品サンプル展を開催した。エリツィンの下で、モスクワの新しい総合開発計画が策定され始め、歴史的建造物の取り壊しが禁止され、シティーデーが祝われ始めた。 1986年2月の共産党第27回党大会で、彼は中央委員会政治局候補に選出され、1988年2月18日までその地位にあった。ゴルバチョフの下では改革派として行動したが、ゴルバチョフ政権におけるペレストロイカの遅れを強く非難したため、他の政治局員からのエリツィンに対する批判はゴルバチョフを驚かせるほど強いものとなる。1987年にブレジネフ派の大物エゴール・リガチョフを公然と非難したため、彼と対立し、政治局候補としての職務の辞任を求めた。しかし彼の支持者であった「ペレストロイカの立役者」のアレクサンドル・ヤコヴレフらはエリツィンの反ゴルバチョフ演説を批判し、結局、エリツィンも自分の誤りを認め、悔い改めることを余儀なくされた。 11月3日、エリツィンはゴルバチョフに書簡を送り、モスクワ市第一書記として留任するよう懇願した[15]。11月9日、彼は心臓発作のため入院した[16]。後のゴルバチョフやヴィタリー・ウォロトニコフの証言によると、自殺未遂あるいは自殺未遂を装ったものによるものであったという。
モスクワでの勤務