1986年、ブロードウェイ・ミュージカル『Big Deal』の脚本、振付、演出を行ない、トニー賞において5部門にノミネートされて振付賞を受賞した他、『スイート・チャリティ』再演でも5部門にノミネートされ再演ミュージカル作品賞を受賞した[8]。
ロバート・デ・ニーロ主演でゴシップ・コラムニストのウォルター・ウィンチェルについての映画の制作を始め、マイケル・ハーが脚本を執筆した。プロジェクトが本格的に始まる前にフォッシーは亡くなった。 フォッシーのスタイルは、膝の折り曲げ、「フォッシー・アメーバ」、横向きでのすり足、肩回し、ジャズ・ハンドなどの特徴で知られる[28]。フレッド・アステアの影響を受け、山高帽、杖、椅子などの小道具が使用された。トレードマークである帽子の使用は自意識によるもので、マーティン・ゴトフリード著のフォッシーの伝記によると「帽子を被るのは禿頭のためであり、ダンサーたちに被らせるのもそのためである」[19]。手袋を使用するのは自身の手が好きでないからであった。フォッシーの人気の楽曲は『パジャマゲーム』の「"Steam Heat"」、『スイート・チャリティー』の「"Big Spender"」などであった。若かりしベン・ヴェリーンが出演していた『スイート・チャリティ』の「"Rich Man's Frug"」はフォッシーの特徴的なスタイルが集約されているものの1つである。 『くたばれ!ヤンキース』では「ジャズ・ダンスの父」と呼ばれるジャック・コール 1947年5月3日、デトロイトにてダンス・パートナーのメアリー・アン・ナイルズ(1923年?1987年)と結婚した[30]。ナイルズとの離婚から1年後の1952年、ニューヨークにてダンサーのジョーン・マクラケンと結婚したが[31]、1959年に離婚した[32]。 1955年、『くたばれ!ヤンキース』の振付で、主演のダンサーで女優のグウェン・ヴァードンと出会って1960年に3度目の結婚をした[33]。1963年、娘のニコールが生まれ、のちにダンサーおよび女優となった。フォッシーの数々の浮気が結婚生活に負担をかけ、1971年には別居していたが法的には1987年にフォッシーが亡くなるまで婚姻は続き、以降ヴァードンは誰とも再婚しなかった[19][34][35]。 1972年、演出および振付を行なった『PIPPIN』にコーラス・ダンサーで出演していたアン・ラインキング
革新的な振付スタイル
私生活
1961年、『The Conquering Hero』リハーサル中に舞台上で発作が起き、てんかんであることが明らかになった[19]。
フォッシーはスタジオや劇場以外で1人でいることはほとんどなかった。サム・ワッソン著の伝記『Fosse』によると、夜1人でいることは死ぬほど辛いものであった。処方されたアンフェタミンの作用による孤独感や不眠症を軽減するために自分が携わる作品に出演するダンサーに連絡をしてデートしようとすることも多く、誘われた側は断りづらいがフォッシーは求める肯定感を得ることができた[8]。
フォッシーとヴァードンが共同で制作していた頃、フォッシーは批評家たちから非難され続け、ヴァードンは作品への関わりの程度に関わらず称賛されていた。しかしヴァードンは常にフォッシーおよびフォッシー家のイメージに気を遣い、出演者たちを集めて盛大なパーティを催し、婚姻期間を通じてフォッシーの広報を担った[8]。 ワシントンD.C.のナショナル・シアターで『スイート・チャリティー』再演が開幕する直前に、ウィラード・ホテルの近くで倒れてヴァードンの腕に抱かれ、1987年9月23日、ジョージ・ワシントン大学病院にて心臓発作で亡くなった[1][37]。 ヴァードンとニコールは遺言の通りに、フォッシーがガールフレンドと4年住んでいたロングアイランド州クォグの大西洋沖に遺灰を撒いた[38]。 没後1ヶ月、ヴァードンはフォッシーの遺志を継ぎ、ニューヨークのセントラル・パークにあるタヴァーン・オン・ザ・グリーンに著名な友人たちを集めフォッシーを偲ぶ夕食会を開催した[39]。
死
主な作品
舞台