ボブ・フォッシー
[Wikipedia|▼Menu]
1973年には『キャバレー』でアカデミー監督賞を、『PIPPIN』でトニー賞を、ライザ・ミネリ主演の"Liza with a Z"でエミー賞を受賞。1年のうちにこれだけの賞を獲得した人物は彼だけである。また、1979年の『オール・ザット・ジャズ』ではカンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞している。

1999年、ブロードウェイで上演された、彼のダンスナンバーを集めたミュージカル『フォッシー』がトニー賞を受賞した。

果たされなかったが、彼の作品『シカゴ』をマドンナ主演で映画化する構想もあったという[要出典]。
生い立ち

1927年6月23日、イリノイ州シカゴにてザ・ハーシー・カンパニーの出張販売員のノルウェー系アメリカ人の父シリル・キングスリー・フォッシーと[3]、アイルランド系アメリカ人の母サラ・アリス・フォッシー(旧姓スタントン、愛称セイディ)のもとに生まれた。6人きょうだいの5番目であった[1][4][5]

ダンスに夢中になり、レッスンを受けていた。13歳の時にはシカゴにて「リフ・ブラザーズ」としてチャールズ・グラスと共にプロとして活動していた[6]。シカゴのヴォードヴィルや映画館の他、米国慰問協会による舞台やイーグルス・クラブでもパフォーマンスを行なっていた[7]。シルバー・クラウドやケイヴ・オブ・ウィンズなどのバーレスク・クラブにも出演していた。フォッシーによると、従業員の多くはフォッシーが未成年であるのに大人の社交場で働くことや、バーレスクの女性たちからセクハラされることに無関心であった。この頃の経験の多くがのちの作品に着想を与えることとなった。1943年、15歳の時、映画『Hold Evry'thing! A Streamlined Extravaganza in Two Parts』でバーレスクから着想を得た、肩紐のないドレスを着たショーガールが大きな扇子で踊るファン・ダンスを特徴とする振付を行ない、初めて振付師としてクレジットされた[8]

1945年に高校を卒業した後、第二次世界大戦終戦間近にアメリカ海軍に入隊し、五大湖海軍基地で戦闘に備えた。エンターテイメント部門に志願したがうまくいかず、マネージャーのフレデリック・ウィーヴァーに推薦してくれるよう嘆願した[8]。その後すぐにショー「Tough Situation」に参加して太平洋周辺の軍隊や海軍基地を巡業した。

1947年、除隊後に第二のフレッド・アステアを目指してニューヨークに移住した。アメリカン・シアター・ウイングで演技を学び始め、のちに最初の妻でダンス・パートナーとなるメアリー・アン・ナイルズ(1923年-1987年)と出会った[9]。『コール・ミー・ミスター』 でナイルズと共演し、初めて舞台で役を演じた[10]。フォッシーとナイルズは『Your Hit Parade』の1950年シーズンにレギュラー出演していた。ディーン・マーティンジェリー・ルイスはニューヨークのピア・ホテルで2人のダンスを観て、1951年、『The Colgate Comedy Hour』への出演を依頼した[11]

1986年のインタビューにおいてフォッシーは「ジェリーが私に振付を始めさせた。振付師として初めての仕事を与えてくれてとても感謝している」と語った[12]

1953年、メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)と契約した[13]。その年のうちに『Give a Girl a Break』、『やんちゃ学生(英語版)』、『キス・ミー・ケイト(英語版)』にダンサーとして出演した。『キス・ミー・ケイト』では短いながらも振付を行ない、キャロル・ヘイニー(英語版)とのダンスでブロードウェイのプロデューサーたちから注目された[14]
キャリア
1940年代

1940年代後期から1950年代初頭にかけて、映画から舞台に移行していった。1948年、レビュー『Make Mine Manhattan』において、ブロードウェイではトニー・シャーモリが出演していたが、全米ツアー公演ではフォッシーにこの役が与えられた。さらにフォッシーがツアー公演を終えた際、シャーモリは自身の番組にダンサーとして出演させた[15]
1950年代

1953年、MGMのハワード・キールキャスリン・グレイソンアン・ミラー主演のミュージカル映画『キス・ミー・ケイト(英語版)』に出演し、楽曲「The Taming of the Shrew」のダンス・シーンにホルテンシオ役で登場した。

1954年、『パジャマゲーム』で初めてミュージカルの振付を行ない、1955年には映画『マイ・シスター・アイリーン』、ジョージ・アボット(英語版)脚本および演出のミュージカル『くたばれ!ヤンキース』と続いた。『くたばれ!ヤンキース』制作中、1960年に結婚することとなる当時人気急上昇中のグウェン・ヴァードンと出会った。1956年、ヴァードンはトニー賞 ミュージカル主演女優賞を初受賞した[16]。1954年にはヴァードンは『CAN-CAN』でトニー賞 ミュージカル助演女優賞を受賞していた。1957年、アボット演出のミュージカル『New Girl in Town』で振付をし、ヴァードンは2度目のトニー賞 ミュージカル主演女優賞受賞となった[16]

1957年、ドリス・デイ主演の『パジャマゲーム』映画版の振付を行なった。翌年、『くたばれ!ヤンキース』映画版に出演および振付し、ヴァードンがローラ役を再演した。マンボの楽曲「"Who's Got the Pain"」でフォッシーとヴァードンがダンス・パートナーとなっている。

1959年、ミュージカル『Redhead』の演出および振付を担当した[17]
1960年代

『Redhead』はトニー賞 ミュージカル作品賞を、フォッシーは振付賞を、ヴァードンは3度目のミュージカル主演女優賞を受賞した[18]。次にラリー・ゲルバート(英語版)脚本のミュージカル『The Conquering Hero』の演出および振付を担当する予定だったが降板した。

1961年、ロバート・モース(英語版)主演の風刺的ブロードウェイ・ミュージカル『ハウ・トゥー・サクシード』の振付を行なった。窓拭き作業員の野心的な青年J・ピアパント・フィンチ(モース)が「努力しないで出世する方法」という本を読んでワールドワイド・ウィケット社で出世していく物語である。このミュージカルはすぐにヒットした[19][20]

1963年、ミュージカル『Little Me』でトニー賞において振付賞と演出賞にノミネートされ、振付賞を受賞した[9]

1966年、ヴァードン主演の『スイート・チャリティー』で振付および演出を行なった[21]。この映画化でシャーリー・マクレーン主演の『スイート・チャリティー(英語版)』を始めとしてフィーチャー映画5本の監督を行なった。
1970年代

1972年、ライザ・ミネリマイケル・ヨークジョエル・グレイ主演のミュージカル映画『キャバレー』が2本目の監督作品となった。1996年のミュージカル『キャバレー』を基にしている。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:97 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef