ボブ・ディラン
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1959年9月、奨学金を得てミネソタ大学に入学するも半年後には授業に出席しなくなる[39][40]。持っていたエレキ・ギターアコースティック・ギターに交換[41]ミネアポリスフォーク・シンガーとしての活動を始め[42]、この時にボブ・ディランと名乗っていた[43]。「ボブ」はロバートの愛称ボビーから、「ディラン」は詩人ディラン・トーマスから取った[44]とも、また叔父の名前であるディリオンから取ったとも述べている[45]。アメリカ土着のブルース、ヒルビリーへの傾倒を深めていたこのころ[46]ウディ・ガスリーのレコードを聴き大きな衝撃を受ける[47]
1960年代
ニューヨークへの移住とレコードデビュージョーン・バエズとディラン(1963年)ニューヨーク・セントローレンス大学でのステージ(1963年)

1961年冬、ミネソタ大学を中退してニューヨークに移住したディランは、グリニッジ・ヴィレッジ周辺のフォーク・ソングを聴かせるクラブやコーヒーハウスなどで弾き語りを始めた[48][49]が、やがてハリー・ベラフォンテのバンドで初めてプロのレコーディングを経験[50]。キャロリン・ヘスターのレコーディングに参加したことや[51]ニューヨーク・タイムズ紙で好意的に論評されたこと[52]を契機に[53]コロムビア・レコードジョン・ハモンドにその才能を見出され[54][53]1962年3月にアルバム『ボブ・ディラン』でレコードデビューする。しかし同年の成績は5,000枚程にとどまり、これはコロムビアの期待していた売上の3分の1に過ぎなかった[55][56]

当初は、トラッド・フォークやブルースを中心に歌っており自作曲は少なかったが、ニューヨークで出会った人達[57]、絵画[58]、ミュージカル[59]、レコード[60]ランボー[61]ヴェルレーヌブレイクといった象徴主義的な作風の詩人の表現技巧など、さまざまなものに創作上の影響を受け、急速に多くの自作曲を書いた[62][63]。「オンリー・ア・ホーボー?トーキン・デビル」「ジョン・ブラウン」「エメット・ティルのバラッド」など初期作品の一部は、トピカルソングを紹介する『ブロードサイド』誌に掲載され[64]、録音は同レーベル(後にフォークェイズ)のオムニバスに収録、ブラインド・ボーイ・グラント(Blind Boy Grunt)なる変名でクレジットされている[65][66]

アルバート・グロスマンがマネージャーに就任する[67]と、幅広い活動が可能になり、他のアーティストへの楽曲提供が発案された[68]。しかし一方でグロスマンとハモンドが契約をめぐって対立[69]。2枚目のアルバムのレコーディング中に、プロデューサーはトム・ウィルソンに交代する。1962年12月、ロックンロールそのもののシングル「ゴチャマゼの混乱」を発表しているが、あまりに印象が異なるため早々に回収された[注釈 23]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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