ボブ・ディラン
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

ディランの手法[注釈 36]は指示を出さず、キーやリズムの指定もしないというもので、即興演奏を得意とするザ・デッドには合っていた。

ディランは、トム・ペティを通じて知己を得たユーリズミックスのデイヴ・ステュワートに「エモーショナリィ・ユアーズ ("Emotionally Yours") 」 "When The Night Comes Falling From The Sky" のミュージック・ビデオ制作を依頼する。ディランは数年後にジョン・メレンキャンプにも依頼しているが、ミュージシャンに映像制作を依頼する理由は不明である。

また、1987年に公開された出演映画『ハーツ・オブ・ファイヤー(Hearts Of Fire)』も不評を買うなど、この時期のディランの活動はことごとく不調であった。なお、『ハーツ・オブ・ファイヤー』のサウンドトラックにはディランの曲が3曲収録されたが、廃盤となっている。他に、ディズニーの企画盤では "This Old Man" が、ウディ・ガスリーの追悼アルバムには "Pretty Boy Floyd" が収録された。

1987年に、ダニエル・ラノワのプロデュースによる『ヨシュア・トゥリー』を発表していたU2の、ワールド・ツアーのロサンゼルス公演に参加し、ボノと「アイ・シャル・ビー・リリースト」、「天国への扉」を歌った。ボノは当時、スタジオ録音に悩んでいたディランに「ラノワなら彼を上手くプロデュースできるのでは」と発言している。

1988年にはロイ・オービソンジョージ・ハリスンジェフ・リントム・ペティと共に覆面インスタント・ユニット、トラヴェリング・ウィルベリーズを結成し、アルバム『トラヴェリング・ウィルベリーズ Vol.1』を発売。ツアーも予定されていたが、12月6日にオービソンが心臓発作で死去したため、ツアーは実現しなかった。その後、デル・シャノンを加えた新体制で続行する可能性もあったが、シャノンは1990年2月8日に拳銃自殺してしまう。結局、残された4人で2枚目のアルバム『トラヴェリング・ウィルベリーズ Vol.3』(1990年)を発売した後、バンドは解散した。

1989年には、ボノの進言で招聘したダニエル・ラノワの助力による『オー・マーシー』を発表。ディランの持つ南部音楽志向を存分に引き出したが、売上は全盛期には遠く及ばなかった。2005年に発売された自伝には当時のレコーディングのことが詳細に記述されている。収録曲「モスト・オブ・ザ・タイム "Most of the Time" 」のミュージック・ビデオには別テイクが使われており、その音源はプロモーションCDにのみ収録された。
1990年代
ネヴァー・エンディング・ツアースウェーデンストックホルムでのステージ(1996年)

一連のスタジアムコンサートツアーを終えたディランは、1988年6月7日[101]より小さなホールにおいて最小限のメンバーによる即興性を強調した公演活動を開始した。このツアーは「ネヴァー・エンディング・ツアー (Never Ending Tour) 」と題され、1991年にG・E・スミスのサポートメンバー脱退を以てひとまず完結した。これ以降のディランのツアーは、それぞれ別のタイトルがつけられているのだが、いつしかファンの間では、以降のディランの公演はおしなべて「ネヴァー・エンディング・ツアー」という名称で呼ばれるようになった。

この時期に至るまで、ディランの作風は大きく変化してきた。当初はパンキッシュな姿も見せたが、次第にアコースティック・ギターとハーモニカを用いた従来の作風を捨て、メロディーラインもアンサンブルも捨て、ひたすらリードギターを演奏するようになったのである。そのグルーヴ感を全面に押し出すスタイルを一部の評論家(特に小倉エージ)は「ボディ・ミュージック」とも形容した。ツアーメンバーには、テレビ番組「サタデー・ナイト・ライブ」も手がけたG・E・スミス(後述の30周年記念公演でもハウスバンドのギタリストとして、事実上のコンサートマスターであった)、ウィンストン・ワトソン(ジョン・ボーナムのような力強いドラミングで、1990年代半ばのディランを象徴した)、チャーリー・セクストン(元ソロ歌手)らが交代で参加している。

1990年に『アンダー・ザ・レッド・スカイ』を発表後、ディランはその後7年間自作曲のスタジオ・アルバムを制作しなくなった[102]。そのことに関して、「過去にいっぱい曲を作ったので新曲を作る必要を感じない」と発言している。

その後、1997年までに発表されたものは、2枚のトラディショナル・ソングのカバー・アルバム『グッド・アズ・アイ・ビーン・トゥ・ユー』と『奇妙な世界に』、未発表曲のコンピレーション、ベスト数枚、MTVライブであった。またウィリー・ネルソンのアルバムへのゲスト参加、映画『ナチュラル・ボーン・キラーズ』への楽曲提供(ポール・アンカのカバー「ユー・ビロング・トゥ・ミー」)、マイケル・ボルトンとの共作「Time, Love And Tenderness」などもあった。

1991年2月、グラミー賞生涯功労賞(Lifetime Achievement)を受賞[103]。授賞式では湾岸戦争開始直後の好戦気分溢れる時期でありながら、「戦争の親玉」をハードロックアレンジで歌い、聴衆を驚かせた。

同年には、それまでの過去の音源からの未発表曲を網羅した『ブートレッグ・シリーズ第1?3集』を発表した。「アイ・シャル・ビー・リリースト」「ブラインド・ウィーリー・マクテル ("Blind Willie McTell") 」「夢のつづき ("Series Of Dreams") 」などの曲で再評価の兆しになった。

1992年10月16日にはレコードデビュー30周年を祝って、マディソン・スクエア・ガーデンで記念公演が開催され、多くのアーティストがディランの代表曲を歌った。ディランは当時、過去の人扱いにも似たこの「ボブ・フェスト(ニール・ヤングによる命名)」をよく思わず、舞台上でも時折不機嫌な表情を見せていた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:286 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef