ボブ・ディラン
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嵐のような演奏が終わると、放心状態だった会場からは惜しみない拍手が巻き起こったが、ディランはぶっきらぼうに「ありがとう」と言い残し、そのままステージをあとにした[注釈 30]

またこの頃使用し始めたLSDは、ビートルズやザ・ビーチ・ボーイズらと同様、作風にも大きく影響し、特にディランの声を大きく変化させた。

この時期のアルバム未収録曲としては、「ビュイック6型の想い出 ("From a Buick 6") 」のハーモニカバージョン、「窓からはい出せ」のアル・クーパーマイク・ブルームフィールドによるセッション(当初、「Positively 4th Street」と誤記されたシングル盤が出回ったため回収。再発売され、後に『バイオグラフ』(1985年)に収録された公式バージョンはザ・ホークスとの再録音)などがある。「イート・ザ・ドキュメント」の中でレノンと彼のリムジンの中で会話を収録しようとしたが、なぜか酔っていたディランはまともな会話が出来ず、呆れて失望したレノンは酷い嫌味を言うようになってしまった。結果的にディランは醜態を見せ、それまでディランに傾倒していたレノンに決別を決意させてしまう結果になった。その映像はカットされたがビートルズの海賊盤のCDやビデオやDVDに収録されている。
バイク事故と隠遁

こうして最初の絶頂期を迎えていた[79]1966年7月29日に、ニューヨーク州ウッドストック近郊で[80]交通事故を起こす[81]。重傷が報じられ[82][注釈 32]、すべてのスケジュールをキャンセルして[83]隠遁。再起不能説や死亡説などの噂が流布した[84]。しかし当時、ドラッグ[85]とコンサートツアーに明け暮れ、「競争ばかりの社会から抜け出したかった」[81]ディランにとってはかえってよい休養となった[86][83]。事故の三週間程前、秘密裏に結婚していたサラ・ラウンズとの間に子供が生まれ、家族以外のことには興味を持てなくなっていたディラン[81]の大きな転機である[86][85]

翌1967年からはウッドストックに隠遁し、ザ・ホークスのメンバーとともにレコード会社向けデモテープの制作に打ち込む。このセッション音源をもとにしたアセテート盤が配布され、マンフレッド・マンによる「マイティ・クイン ("Quinn the Eskimo (The Mighty Quinn)") 」がキャッシュ・ボックスで10位、全英シングル・チャートで1位を獲得するなど、様々なミュージシャンにカバーされて紹介された。ザ・ホークスは、ザ・バンドと名を改め、このセッションから生まれた「アイ・シャル・ビー・リリースト」「火の車 (This Wheel's on Fire) 」などの楽曲を収録し、ディランが描いた絵をジャケットに掲載したアルバム『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』(1968年)で単独デビューする。やがてディランとザ・バンドによる膨大な未発表のデモテープがディラン宅の地下室にあるという噂が広がったが、その後大きな問題が生じた。副産物として『グレート・ホワイト・ワンダー (Great White Wonder) 』などの海賊盤が出回り始め、闇の一大市場となってしまったのである。なお、このデモ音源の一部は1975年にロビー・ロバートソンの手により、新たにオーバーダブを加えた改良版として『地下室(ザ・ベースメント・テープス)』の題で公式発表された。

1967年にはベネルックス三国にて、地元のバンドによるコーラスをオーバーダビングした「出ていくのなら ("If You Gotta Go, Go Now") 」が発売された。1991年発売の『ブートレッグ・シリーズ1 - 3集』に収録されたものとは全く違う、ハーモニカなしのものであった。

1967年12月、前作に引き続き、ナッシュビルで録音した『ジョン・ウェズリー・ハーディング』を発表。「見張塔からずっと」は、ジミ・ヘンドリックスがカバーしてヒットする。

1969年に映画『真夜中のカーボーイ』の主題歌の依頼があったが、レコーディングが間に合わず、ハリー・ニルソンの「うわさの男Everybody's Talkin'」に差し替えられるということがあった。その幻の主題歌「レイ、レディ、レイ ("Lay Lady Lay") 」は結局単独作として発表されたが、澄んだ声と奥行きのあるサウンドのこのシングルは全米8位のヒットとなった。ディランにとって、最後のトップ10シングルである。この曲が収録された『ナッシュヴィル・スカイライン』はまさにカントリーといっていいアルバムである。このアルバムでの澄んだ歌声についてディランは、たばこを止めたら声質が変わったと述べてはいるが、次アルバムに収録された「ボクサー」では、しゃがれ声と澄んだ声による多重録音、一人二重唱をやっている。12月には後に自身と同じくミュージシャンとなる息子、ジェイコブ・ディランを授かっている。
1970年代
隠遁後からレコード会社移籍まで

1970年6月、『セルフ・ポートレイト』を発表。カントリー、MORインストを含む様々なジャンルの曲を無作為に並べた実験精神溢れるアルバムで、評価をとまどう声もあった[87]が売上は好調であった。その直後、活動拠点をナッシュビルからニューヨークに戻し、10月『新しい夜明け』を発表する。

その後、ディランはオリジナルアルバムの制作を中断。それ以降は「バングラデシュ・コンサート」への出演、ジョージ・ハリスン[88]レオン・ラッセル[89][90]、ハッピー・トラウム[91][92]、アール・スクラッグス[93]、デヴィッド・ブロンバーグ、ロジャー・マッギン[94]、ダグ・サム[95]らとセッションしたこと以外は沈黙を守る。

1971年発表の『グレーテスト・ヒッツ第2集』にはディラン自身が出した条件としてレオン・ラッセル、デラニー&ボニー&フレンズとのセッションから2曲、ハッピー・トラウムとのセッションから3曲、そして未発表初期音源としてタウンホールでのライブから「明日は遠く ("Tomorrow Is A Long Time") 」を一切の手を加えない状態で収録。ベスト盤にボーナス・トラックを加える先例となる。また、同年末には久々のプロテストソングである「ジョージ・ジャクソン」を発表。A面にはレオン・ラッセルとのセッションからのビッグ・バンド・バージョン、B面にはアコースティック・バージョンを収録。当時のアメリカの放送局では、歌詞に問題がある場合はそのシングルのB面を放送するのが慣例であったが、このシングルはB面の方が歌詞がより鮮明に聴こえ、逆に効果があった。

1973年、ビリー・ザ・キッドを題材にした映画『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』への出演をきっかけに活動を再開。挿入歌「天国への扉」は多くのアーティストがカバーする楽曲の1つとなった[96]


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