当初は、トラッド・フォークやブルースを中心に歌っており自作曲は少なかったが、ニューヨークで出会った人達[57]、絵画[58]、ミュージカル[59]、レコード[60]、ランボー[61]、ヴェルレーヌ、ブレイクといった象徴主義的な作風の詩人の表現技巧など、さまざまなものに創作上の影響を受け、急速に多くの自作曲を書いた[62][63]。「オンリー・ア・ホーボー?トーキン・デビル」「ジョン・ブラウン」「エメット・ティルのバラッド」など初期作品の一部は、トピカルソングを紹介する『ブロードサイド』誌に掲載され[64]、録音は同レーベル(後にフォークェイズ)のオムニバスに収録、ブラインド・ボーイ・グラント(Blind Boy Grunt)なる変名でクレジットされている[65][66]。
アルバート・グロスマンがマネージャーに就任する[67]と、幅広い活動が可能になり、他のアーティストへの楽曲提供が発案された[68]。しかし一方でグロスマンとハモンドが契約をめぐって対立[69]。2枚目のアルバムのレコーディング中に、プロデューサーはトム・ウィルソンに交代する。1962年12月、ロックンロールそのもののシングル「ゴチャマゼの混乱」を発表しているが、あまりに印象が異なるため早々に回収された[注釈 23]。 1962年12月から1963年1月、初めてイギリスを訪れ、BBCのテレビドラマ「マッドハウス・オンキャッスル・ストリート (Madhouse on Castle Street
時代の代弁者とそれからの脱却
1963年5月、セカンド・アルバム『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』を発売。6月、ミシシッピー州グリーンウッド選挙人登録集会で演奏。7月、ピーター・ポール&マリーがカバーした「風に吹かれて」[75]がビルボード2位のヒットを記録する。同月、ニューポート・フォーク・フェスティバルに出演[注釈 24]。8月28日、ワシントン大行進で演奏。公民権運動が高まりを見せていたアメリカにおいて、ディランは次第に「フォークの貴公子」として多大な支持を受け、時代の代弁者とみなされるようになっていった。10月26日、カーネギー・ホールでソロ・コンサート[注釈 25]。1964年1月、アルバム『時代は変る』を発売。しかし、急進化する運動や世間が抱いている大げさな自分の印象に違和感を持ち、次第にスタイルを変化させ、次のアルバム『アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン』(1964年)では、プロテストソングと呼べる曲を排した。10月31日、フィルハーモニック・ホール「ハロウィーン・コンサート」(『アット・フィルハーモニック・ホール(ブートレッグ・シリーズ第6集)』(2004年)収録)。
この頃から、ディランの楽曲をカバーするアーティストが増加した。中でもザ・バーズによる「ミスター・タンブリン・マン」はビルボードで1位を獲得している。「悲しきベイブ」「はげしい雨が降る」「くよくよするなよ」「イフ・ノット・フォー・ユー ("If Not For You") 」「いつまでも若く ("Forever Young") 」などもよくカバーされている。 1964年頃から大麻などの薬物の影響が、コンサートやレコーディングでも見られ始めた。ビートルズやローリング・ストーンズをはじめイギリスのミュージシャンとの交流が芽生えたのもこの時期である。ただしビートルズのメンバーはハンブルク滞在中から薬物[76]、セックス、ロックンロールを享受しており、ディランがビートルズに薬物を教えたというのは誤りである。中期以降のビートルズは薬物体験を題材にしたサイケデリックな曲を多く残したが、特に1960年代半ばのジョン・レノンはディランに傾倒し、作風から精神性などの面でディランに触発された。またジョージ・ハリスンとは後に生涯にわたる友情を築くこととなる。(1971のジョージ・ハリスンのバングラデシュ難民救済コンサートにも出演している)
エレクトリック・ギターの使用