英セント・アンドルーズ大学や、米プリンストン大学は、彼に名誉博士号を与えている。ディランは「現行の音楽をすべて忘れて、ジョン・キーツやメルヴィルを読んだり、ウディ・ガスリー、ロバート・ジョンソンを聴くべし」と後進のアーティストに提言している。
歌詞や自伝における引用・盗用(盗作)が数多く指摘されている。佐賀純一やジャック・ロンドン、アーネスト・ヘミングウェイ、ヘンリー・ティムロッド(英語版)や、旅行ガイドからの引用も突き止められてきた。絵画は映画「パリ、テキサス」「黒い罠」の場面からの盗用が発覚している。さらにエド・クック教授は、ディラン自伝での盗用を発見し、失望したと述べている。ジョニ・ミッチェルは、LAタイムズ紙の取材の中で、「ディランは盗作野郎で、名前も声もインチキ、まがいもの。彼と私は昼と夜みたいなもの。彼は彼。私は私」と厳しく批判している[13]。
2012年10月発売の米誌ローリング・ストーン(フランス語版)のインタビューで米国の人種間関係について問われた際に、「奴隷主や(クー・クラックス・)クランの血が混じっている人がいれば黒人はそれを感じ取る。そういうことは今日にも残っている。ユダヤ人ならナチスの血を感じ取り、セルビア人ならクロアチア人の血を感じるように」などと応じ、クロアチア人に対する憎悪を煽情する発言として在仏クロアチア人協議会から告訴された。2013年11月中旬、これを受けたフランス司法当局により、侮辱行為と憎悪扇動の罪で刑事訴追されたが[14][15][16]、2014年4月15日にパリの裁判所により訴えは棄却された[17]。
経歴
生い立ち・ツィメルマン(シャプサイ・ジスル)(イディッシュ語: ?????????? ???? ???? ????????? ????????? ?absay Zisl ben Avrohom Tsimerman)。ジスルはイスラエルの愛称。祖父母はロシア帝国のオデッサ(現ウクライナ)やリトアニアからの移民であり、父エイブラハム・ジマーマン(1911 - 1968)と母ビアトリス・ストーン(愛称ビーティー)(1915 - 2000)は小規模だが絆の固いミネソタのアシュケナジム・ユダヤ人の一員だった[22][23]。1946年、弟デヴィッド誕生[24]。1947年頃、一家はヒビングに転居する[25][26]。
幼少時より家にあったピアノを独習[27][28]。「ラジオを頻繁に聴いていた。レコード店に入り浸り、ギターをかき鳴らし、ピアノを弾いて、自分の周りにはない別の世界からの歌を覚え」て育つ[29]。初めてのアイドルはハンク・ウィリアムズ[30][31][32]。ハイスクール時代はロカビリーの全盛期で、ディランもまたエルヴィス・プレスリーらにあこがれバンドを組んで演奏活動を始める[33][34][35]。ハイスクールの卒業アルバムには「リトル・リチャードと共演すること」が夢だと記している[36]。1959年夏、ノースダコタ州ファーゴでエルストン・ガンという名でボビー・ヴィーのバンドにピアニストとして加入し、ステージを数回経験する[37][38]。
1959年9月、奨学金を得てミネソタ大学に入学するも半年後には授業に出席しなくなる[39][40]。持っていたエレキ・ギターをアコースティック・ギターに交換[41]。ミネアポリスでフォーク・シンガーとしての活動を始め[42]、この時にボブ・ディランと名乗っていた[43]。「ボブ」はロバートの愛称ボビーから、「ディラン」は詩人のディラン・トーマスから取った[44]とも、また叔父の名前であるディリオンから取ったとも述べている[45]。アメリカ土着のブルース、ヒルビリーへの傾倒を深めていたこのころ[46]、ウディ・ガスリーのレコードを聴き大きな衝撃を受ける[47]。
1960年代
ニューヨークへの移住とレコードデビュージョーン・バエズとディラン(1963年)ニューヨーク・セントローレンス大学でのステージ(1963年)
1961年冬、ミネソタ大学を中退してニューヨークに移住したディランは、グリニッジ・ヴィレッジ周辺のフォーク・ソングを聴かせるクラブやコーヒーハウスなどで弾き語りを始めた[48][49]が、やがてハリー・ベラフォンテのバンドで初めてプロのレコーディングを経験[50]。