ボブ・シーガー
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2006年、ボブ・シーガー・システムはミシガン州ロックンロール・レジェンドの殿堂入りを果たしている[9]
ソロ活動

『Mongrel』も成功を収めることができず、ボブ・シーガー・システムは解散した。シーガーはソロに転身し、1971年に全曲アコースティックによるアルバム『Brand New Morning』を発表。このアルバムも商業的失敗に終わり、シーガーはキャピトルレコードを離れることになる[3]

1971年12月10日、詩人・活動家でありFBIにより逮捕・拘束されていたジョン・シンクレアの釈放を支援するコンサート(John Sinclair Freedom Rally)がアナーバーで開催され、ジョン・レノンヨーコ・オノをはじめとする多くのミュージシャンが参加する中で、シーガーも出演した。

この頃、シーガーはロックデュオ、ティーガーデン&ヴァン・ウィンクルと共演するようになる。彼らと制作した『Smokin' O.P.'s』(1972年)は、アンドリュース所有のレーベルであるパラディウムレコードから発表された。大半をカバー曲で占めるこのアルバムは全米180位まで上がり、シングルカットされた「イフ・アイ・ワー・ア・カーペンター」(ティム・ハーディン作)がスマッシュヒット(全米76位)となっている。

1972年のティーガーデン&ヴァン・ウィンクルとのツアー後、シーガーは新たにバックバンドにジェイミー・オールデイカー(ドラムス)、ディック・シムズ(キーボード)、マーシー・レヴィ(ボーカル)らを迎えてアルバム『Back in '72』を制作する。マッスル・ショールズ・リズム・セクションも参加したこのアルバムには、後にシーガーのライヴクラシックとなりメタリカにもカバーされた「ページをめくって(Turn the Page)」や、シン・リジィにカバーされる「ロザリー(Rosalie)」、ヴァン・モリソンのカバー「アイヴ・ビーン・ワーキング(I've Been Working)」などが収録された意欲作だったが、全米チャートは最高188位と振るわなかった。アルバムに伴うツアーでバックバンドに不満を感じたシーガーは、新たなバンドメンバーを探す決意を固める。なお、オールデイカー、シムズ、レヴィはエリック・クラプトンのバックバンドに参加することになる。
ザ・シルヴァー・ブレット・バンド

1974年、シーガーは自分のバックバンドとしてシルヴァー・ブレット・バンドを結成する。オリジナル・メンバーは、ドリュー・アボット(ギター)、チャーリー・アレン・マーティン(ドラム、バックボーカル)、リック・マナサ(キーボード、バックボーカル)、クリス・キャンベル(ベース)、アルト・リード(サックス、バックボーカル)。その後、キーボードはロビン・ロビンズに交代する。同年『Seven』を発表。

1975年、シーガーはキャピトルレコードに戻り、アルバム『美しき旅立ち(Beautiful Loser)』を発表。本作において「カトマンズ(Katmandu)」が全米シングルチャート最高43位まで上り、「ランブリン・ギャンブリン・マン」以来のヒットになる。

1975年9月にデトロイトのコボ・アリーナにおいて二夜にわたって行われたライヴを収録した『ライヴ(Live Bullet)』が翌年4月に発表される。このアルバムは、まずデトロイトで大ヒットを記録し、その後全国で注目を集めるようになり、全米アルバムチャートで34位にランクインした。しかし、相変わらず地元以外での知名度が低かったため、デトロイト郊外で8万人近いファンの前でライヴを行った翌日のシカゴ公演では観客が1,000人に満たないということもあった[10]。1975?76年には、キッスの北米ツアーの前座を務めている[11]
商業的成功へ(1976?87年)

1976年に発表されたアルバム『炎の叫び(Night Moves)』から、シーガーの本格的な快進撃が始まる。タイトル曲「ナイト・ムーヴス(Night Moves)」は全米シングルチャートの最高4位を記録し、AORラジオ局でもエアプレイされるようになる。アルバムには、マッスル・ショールズのピート・カーによるギターが印象的な「メインストリート(Mainstreet)」(全米24位)、「ロックン・ロール(Rock and Roll Never Forgets)」(全米41位)が収録されている。『炎の叫び』は、全米アルバムチャートでシーガー初のトップ10アルバム(最高8位)となり、2006年の時点で米国で600万枚の売り上げを記録し、オリジナルアルバムとしてはキャリア最大の売り上げとなる。このアルバムの成功により、前々作『美しき旅立ち』が全米で200万枚、前作『ライヴ』も500万枚以上の売り上げを記録する。

1977年2月にドラマーのチャーリー・アレン・マーティンが交通事故に遭い、後任に1972年の『Smokin' O.P.'s』に参加していたデヴィッド・ティーガーデンが加入する。1978年に発表されたアルバム『見知らぬ街(Stranger in Town)』は全米での売り上げが500万枚を突破し、全米アルバムチャートの4位まで上がり、1979年のビルボードの年間アルバムチャートの14位にランクされた。このアルバムからは、「裏切りのゲーム(Still the Same)」(全米4位)、「夜のハリウッド(Hollywood Nights)」(全米12位)、「愛・ひととき(We've Got Tonight)」(全米13位)、「オールド・タイム・ロック & ロール(Old Time Rock & Roll)」(全米28位)といったヒット曲が生まれている。なお、「愛・ひととき」は、1983年にケニー・ロジャースシーナ・イーストンにカバーされて全米6位のヒットになり、「オールド・タイム・ロック & ロール」は、1983年にトム・クルーズ主演の映画『卒業白書(Risky Business)』に使用され、同年の全米シングルチャートにおいて48位まで上がっている。

1979年、シーガーが共作者として名を連ねているイーグルスの「ハートエイク・トゥナイト」が全米ナンバーワンを記録。

1980年に発表されたアルバム『奔馬の如く(Against the Wind)』は、全米アルバムチャートにおいて15週連続トップの座を守っていたピンク・フロイドの『ザ・ウォール』に代わって、初のナンバーワンに輝く。ファーストシングルの「ファイアー・レイク(Fire Lake)」(全米6位)には、バックボーカルにイーグルスのドン・ヘンリーティモシー・B・シュミット、グレン・フライが参加している。その他に、タイトル曲の「アゲンスト・ザ・ウインド(Against the Wind)」(全米5位)、「わかりあえる時(You'll Accomp'ny Me)」(全米14位)、「地平線のバップ(The Horizontal Bop)」(全米42位)のヒット曲が生まれている。全米チャート6週連続1位を記録したこのアルバムは1980年のグラミー賞を2冠獲得し[12]、全米での売り上げは前作同様500万枚を突破している。

キーボードにクレイグ・フロスト(グランド・ファンク・レイルロード)が加入。1981年にはライヴアルバム『嵐の呼ぶ声(Nine Tonight)』を発表。全米アルバムチャートの3位まで上がり、売り上げは400万枚を突破している。アルバムからはオーティス・クレイで知られる「暴走マイ・ライフ(Trying to Live My Life Without You)」(全米5位)、「フィール・ライク・ア・ナンバー(Feel Like A Number)」(全米48位)がシングルカットされている。

1982年には『ザ・ディスタンス(The Distance)』(全米5位)を発表。アルバム制作中、ギターのドリュー・アボットがシーガーによるセッションミュージシャンの多用に不満を抱きバンドを脱退、後任にドウェイン・ベイリー(後にシカゴ等で活躍)が加入する。また、アルバム発表後にはドラムのデヴィッド・ティーガーデンがバンド内トラブルを理由に脱退、後任にドン・ブリューワー(グランド・ファンク・レイルロード)が加入する。


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