この項目では、実在のカップルについて説明しています。1967年のアメリカ映画については「俺たちに明日はない」を、ブリジット・バルドーとセルジュ・ゲンスブールのアルバムについては「ボニーとクライド (アルバム)」をご覧ください。
ボニーとクライド
Bonnie and Clyde
1932年~1934年にかけて撮影されたボニー(右)とクライド(左)。背後は、襲撃した被害者から強奪したフォード・V8
(1910-10-01) 1910年10月1日 (ボニー)
(1909-03-24) 1909年3月24日 (クライド)
アメリカ合衆国
テキサス州 ローウェナ (ボニー)
アメリカ合衆国
テキサス州 テリコ (クライド)
死没
1934年5月23日(1934-05-23)(23歳)(ボニー)
1934年5月23日(1934-05-23)(25歳)(クライド)
アメリカ合衆国 ルイジアナ州
ビエンビル郡 アーケディア
死因銃撃に因る射殺
殺人
犠牲者数13人
犯行期間1930年頃?1934年5月23日
国 アメリカ合衆国
州多数
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ボニーとクライド(Bonnie and Clyde)は、1930年代前半にアメリカ中西部で銀行強盗や殺人を繰り返した犯罪者。ボニー・パーカー(Bonnie Elizabeth Parker、1910年10月1日 - 1934年5月23日)とクライド・バロウ(Clyde Chestnut Barrow、1909年3月24日 - 1934年5月23日)の2人組。 ルイジアナ州で警官隊によって射殺されるまで、多くの強盗を犯し、少なくとも9人の警官と4人の一般市民を殺害した[1]。ボニーとクライドの犯罪は後に映画化されたほか、舞台、小説、音楽など文化的な影響を与えた[2]。 当時のアメリカは禁酒法と世界恐慌の下にあり、その憂さを晴らすように犯罪を繰り返す彼等の事を凶悪な犯罪者であるにも拘らず、新聞も含めて英雄視する者も多かった[2]。 事件を起こしては逃走を繰り返し、クライドは、犯罪集団「バロウ・ギャング」のリーダーとなっていた。メンバーには、クライドの兄のバックとその妻のブランシェもいた。バロウ・ギャングのメンバーは、何度か入れ替わっているが、ボニーとクライドは常に一緒だった。それからも犯行は続けられ、強盗に入った商店の店主や保安官、警察官が次々と犠牲になった。 ボニーとクライドたちの強盗の手口は、クライドが店に入って金を奪い、ボニーが逃走用の車で待機。逃走経路を計画しておき、州境を越えてしまうというものであった。当時、警察が犯罪者を追跡出来る範囲は州内に限られており、州を越えると手出しできなかった。また連邦捜査局はまだ司法省の一部門「捜査局」に過ぎず、現在のような強力な法執行機関ではなかった。1933年。ボニーとクライドの跡を追う警察官、検察官たち 2人は逃走用にフォード社の乗用車「フォードV8
概要
1934年、フォード社長に対し、ボニーとクライドの名で「貴社で製造していらっしゃるこのV8が本当に良く走るので、我々も非常に仕事がしやすく、感謝している」との内容の手紙が送られてきた。この手紙はフォード博物館に所蔵されているが、真筆かどうかは明らかでない[3][4]。
バロウ・ギャングのメンバーも逮捕者が相次ぎ、その中には、ウィリアムス・ダニエル・ジョーンズ(参加当時17歳。ハミルトンの逮捕後にクライドに強要され一味に合流。1933年に一味を離脱、テキサスに戻り検挙)やヘンリー・メスヴィン(参加当時22歳。1934年最後に参加したメンバー。後に離反し、その父は警察の逮捕に協力。『俺たちに明日はない』のC.W.モスのモデル)らがいた。
逃走を続けていたボニーとクライドだったが、1934年5月23日、ルイジアナ州ビエンビル郡アーケディアの州道を1934年式フォードV8に乗って走行中、行方の情報を掴んで待ち伏せしていたテキサス・レンジャー4名およびルイジアナ州警察の警官2名から、短機関銃で150発以上もの連射を受けた。ボニーとクライドは車で逃げ去ろうとしたが、車体を貫通してきた銃弾を浴びて死亡した。車内からは軍の兵器庫からの盗品であるブローニングM1918自動小銃をはじめ、ショットガン、大型拳銃など、殺傷力の高い強力な銃器類が多数発見された。
二人の遺体はダラスにそれぞれ別に埋葬されている。
銃撃で蜂の巣にされたフォードV8と、クライドが最後に着ていたシャツは、ネヴァダ州プリムにある観光施設プリム・ヴァレー・リゾートで2009年から公開展示されている。
二人の出会いまで
ボニー・パーカー(Bonnie Elizabeth Parker)ボニー・パーカー
1910年、テキサス州ローウェナに3人兄妹の2番目として生まれた[5]。
1914年、父親が死去し、母の生家があるダラス西部のセメントシティーに転居した[5]。ボニーは地元の学校に通い、詩や文学に興味を示す生徒で、勉強では優等生であった。女優になることを夢見ており、若い頃は犯罪の道に進む気配はなかった[5]。
高校2年の時、ボニーは同級生のロイ・ソーントンと交際するようになった[5]。
1926年9月、ボニーの16歳の誕生日の6日前に2人は結婚した[5][6]。しかしロイは家に居つかず、1927年のボニーの日記には、この年だけでロイとボニーが3度の別居状態になったことが記されている[6]。
1929年にロイは強盗で5年の実刑判決を受け、ボニーは母のもとに戻り、ダラスでウェイトレスとして働くようになった。ダラスでの常連客の一人であった郵便局員のテッド・ヒントンは、1932年にダラス郡保安官となったが、結果的に1934年のボニーとクライドの殺害を実行したメンバーの一員となった[7]。
1929年1月以降、ボニーとロイが会うことはなかったが、法的には婚姻は継続されており、ボニーは死亡した際にロイとの結婚指輪をはめており[6]、右足の太ももの内側には「Bonnie」と「Roy」と書かれた2つのハートが繋がったタトゥーを入れていたという[8]。
クライド・バロウ(Clyde Chestnut Barrow)クライド・バロウのマグショット、ダラス警察にて。当時16歳
1909年、ダラスの南東にあるテキサス州エリス郡の貧しい農家に7人兄妹の5番目として生まれた[9]。
1920年代初頭、第一次世界大戦後のあおりで多くの家庭が貧困に直面し、バロウ一家も機会を求めてダラスに向かったが、このような貧しい家族を望まない行政側は、貧困地域であるウェスト・ダラスの「無料キャンプ場」に定住するよう迫った[10]。