ボスニア・ヘルツェゴビナ
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1992年-1998年の国旗1992年-1998年の国章

ボスニア・ヘルツェゴビナは、東南ヨーロッパバルカン半島北西部に位置する共和制国家首都サラエヴォボシュニャク人クロアチア人が主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア人中心のスルプスカ共和国の二つの構成体[4]からなる連邦国家でもある。両地域にまたがるブルチコ行政区は中央政府が直轄している[5]

ほぼ三角形の国土を持ち、国境のうち北側と南西側2辺でクロアチア、東側1辺でセルビアモンテネグロと接する。クロアチア領ダルマチアに挟まれたネウムでごくわずかにアドリア海に面する。
概要

多民族が一つの地域に集まったり散らばったりを繰り返した歴史を持つ場所の一ヶ所となっている。また、かつてはユーゴスラビアの構成国の一つであった。

ユーゴスラビアからの独立時、独立の可否や国のあり方をめぐってボシュニャク人クロアチア人セルビア人がそれぞれ民族ごとに分かれてボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で戦った。

紛争終結後も、3民族の代表が輪番制で国家元首大統領評議会議長)を務めている[5]
国名

正式名称は、ボスニア語クロアチア語で Bosna i Hercegovina(ボスナ・イ・ヘルツェゴヴィナ)、セルビア語で Босна и Херцеговина(ボスナ・イ・ヘルツェゴヴィナ)。

公式の英語表記は、Bosnia and Herzegovina([?b?zni? ?nd ?h??rts????vi?n?, ?h??rts????v?n?] ( 音声ファイル))。

日本語の表記は ボスニア・ヘルツェゴビナ[4]、または ボスニア・ヘルツェゴヴィナ。

「ボスニア」の名称についての最初の言及として広く認められているものは、10世紀半ば(948年から952年の間)に東ローマ帝国皇帝コンスタンティヌス7世によって書かれた帝国地理論(英語版)であり、セルビア人が住んでいる「ボスナ」(ギリシャ語:Βοσ?να)の「小さな土地」(χωρονα)として記述されていた[6]

ボスナは、ボスニアの中心地を流れるボスナ川水名に由来すると考えられている。言語学者アントン・メイヤーによると、ボスナという名前はイリュリア語の「Bass-an-as」に由来する可能性があり、これは「流れる水」を意味するインド・ヨーロッパ祖語語根「bos」または「bogh」から派生したものであると考えられる[7]

ヘルツェゴビナという名前は「ヘルツォークの[土地]」という意味であり、「ヘルツォーク」はドイツ語の「公爵」を意味する。これは、15世紀にこの地域を支配した「フムと海岸のヘルツォーク」サバ公スチェパン・ヴクチッチ(英語版)に由来する。フムは、古くはザクルミア(英語版)と呼ばれていたバンにより征服された中世初期の公国の名称である。オスマン帝国の支配下に入ると、ヘルツェゴビナのサンジャック(英語版)と呼ばれるようになり、行政区分上は、ボスニア・エレヤト(英語版)及び短命のヘルツェゴビナ・エレヤト(英語版)に含まれており、その後、行政区画はボスニア・ヘルツェゴビナに再編された[8]
歴史

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出典検索?: "ボスニア・ヘルツェゴビナ" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2021年4月)
詳細は「ボスニア・ヘルツェゴビナの歴史(英語版)」を参照 「ボスニア・ヘルツェゴビナの人口統計学的歴史(英語版)」も参照
古代・中世

現在のボスニアヘルツェゴビナには当初インドヨーロッパ語族イリュリア人が住んでいたが、紀元前1世紀ローマ帝国の支配下に入った。その後、6世紀後半からスラヴ人が定住し始め、中世の頃にはそれぞれ王国を形成していた。この地域は地理的環境から、キリスト教カトリック正教会の対立の最前線となり、両宗教の激しい布教争いの場となった。このため多くの人々はブルガリアから入ってきたボゴミル派に救いを求める。12世紀後半にはボスニア王国がボスニア、ヘルツェゴビナを統治した。
近世(オスマン帝国統治時代)モスタルスタリ・モスト。ボスニア・ヘルツェゴビナの代表的なオスマン建築のひとつ。

15世紀後半までにはボスニア・ヘルツェゴビナの全域がオスマン帝国の支配下に入る。正統派のキリスト教勢力から弾圧を受けていたボゴミル教徒たちの多くはこのときイスラム教に改宗した。またこのほかにもイスラム教に改宗した現地のスラヴ人、トルコなどから移り住んでボスニア・ヘルツェゴビナに定着したイスラム教徒などによって、この地方ではイスラム教徒の人口比率が高まった。首都であるサラエボはオスマン帝国のボスニア州(英語版)(1580?1867、Bosnia Eyalet)やボスニア州(英語版)(1867?1908、Bosnia Vilayet)の中心となり、宮殿が築かれ、帝国の州知事たちによってオスマン風の都市建設が進められた。多くの住民がイスラム教を受容していたことや、その戦略的重要性のために、ボスニア・ヘルツェゴビナでは他のバルカン諸国に例がないほど文化のトルコ化が進行した。16世紀から17世紀にかけて、オスマン帝国がハプスブルク帝国、及びヴェネツィア共和国戦争を行った際に、ボスニアはオスマン帝国にとって重要な前哨基地としての役目を果たしている。
近代(オーストリア=ハンガリー帝国統治時代)

19世紀後半、オスマン帝国の衰退に伴い、バルカン半島オーストリア・ハンガリー帝国ロシア帝国の勢力争いの場となる。1831年にボスニア蜂起(英語版)(1831?1833)。1875年ヘルツェゴヴィナ蜂起が起きると、この反乱を口火としてモンテネグロ・オスマン戦争(英語版)と露土戦争が起こった。戦後、ロシアの南下政策にオーストリアとイギリスが反対したことにより1878年に開かれたベルリン会議によって、オーストリアはボスニアヘルツェゴビナサンジャクのオスマン帝国主権下の施政権を獲得する。


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