ボスニア・ヘルツェゴビナ併合
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

併合宣言に際しては、当然予想されたとおりセルビア(およびモンテネグロ)が猛反発し、オーストリアはこれをきっかけにセルビアと戦端を開き、かねてより計画していた同国の分割を実行に移し二重帝国における「バルカン問題」を一気に解決しようとした[3]

しかし、オーストリアにとって意外だったことに、英仏がロシアのボスポラス=ダーダネルス海峡の通航権を承認しなかった。したがってオーストリアとの密約が画餅に帰したロシアでは、セルビアに同情的な世論が高まり、当時のストルィピン政権もこれを無視し得なくなり、ロシアはバルカン南下政策にとって重要な同盟国であるセルビアの意向に応えパン・スラヴ主義の建前に立ち戻りオーストリアに対し強硬な態度をとることを余儀なくされたのである[4]。こうしてセルビア側には主権を侵害されたオスマン帝国やフランスにくわえてロシアが加担することとなり、併合宣言後の約半年間にわたって開戦が危ぶまれる外交危機(ボスニア危機)が続いた。

しかしエーレンタールやオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が開戦準備が十分でないことを理由に開戦を断念し、また1903年3月、オーストリアの同盟国であるドイツがロシアに最後通牒を突きつけてセルビアへの圧力をかけさせたため、同年セルビアは併合を承認[5]、戦争の危機は回避されたのである。
結果と影響

この事件の結果、それまで矛盾をはらみつつも何とか機能していたバルカンをめぐる墺露の協調関係[6]は決定的に崩壊した。同時に、ドイツ以外の同盟関係をロシアとの間に形成することで外交のフリーハンドを握ろうとしたオーストリアの企ては破綻し(危機を回避したのも結局はドイツの助け船によるところ大であった)、以後、オーストリアはその対外戦略をますますドイツに依存していくことになる。

また、ボスニア・ヘルツェゴビナ併合問題が結局のところセルビアの敗北に終わったにもかかわらず、「ボスニア危機は(中略)セルビアを辱めなかった。それはセルビアの水準に引き下ろされたオーストリア=ハンガリーのほうを辱めた」(テイラー)[7]。すなわち、セルビアでは大セルビア主義がますます力を持ちオーストリアを敵視するとともに、併合されたボスニア・ヘルツェゴビナにも反オーストリアを標榜する「青年ボスニア(英語版)」運動(Mlada Bosna, ムラダ・ボスナ)が台頭し、この運動の中から後年のサラエヴォ事件の実行犯グループが形成された。そしてロシアはパン・スラブ主義を掲げてこれら南スラヴ人の運動を支援し、パン・ゲルマン主義のオーストリアと対立を深めていくことになった。
関連項目

東方問題#ボスニア危機

参考文献

A・J・P・テイラー 『ハプスブルク帝国 1809?1918 - オーストリア帝国とオーストリア=ハンガリーの歴史』〈
倉田稔:訳〉 筑摩書房1987年 ISBN 9784480853707

大津留厚 『ハプスブルク帝国』〈世界史リブレット〉 山川出版社1996年 ISBN 4634343002

柴宜弘 『ユーゴスラヴィア現代史』 岩波新書、1996年 ISBN 4004304458

南塚信吾(編) 『ドナウ・ヨーロッパ史』〈新版世界各国史〉 山川出版社1999年 ISBN 4634414902

注釈^ テイラー『ハプスブルク帝国』p.312、大津留『ハプスブルク帝国』pp.85-86、『ドナウ・ヨーロッパ史』p.254。
^ 柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』p.40。
^ テイラー、同上、p.316。
^ テイラー、p.315、大津留、p.86。
^ テイラー、p.316。
^ それはある程度、日露戦前のロシアの極東南下政策を前提としていたものであった。大津留、p.86。
^ テイラー、p.315。


記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:14 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef