1783年パリ条約が締結され、ロイヤリストが馴染みのアカディアへ逃亡した。1784年7月5日にジェイムズ・ボーディンやジョン・ハンコックといった名望家がマサチューセッツ銀行を創立した[32]。ジェイムズは初代頭取となった。マサチューセッツ銀行は、当時の法的に従属する関係に関わらず、第一合衆国銀行に対等で競争的な経営を展開したといわれる[33]。この銀行は1928年に旧植民地信託銀行となった。翌年ファースト・ボストン(現クレディ・スイス)に買収されたが、しかしグラス・スティーガル法により再び別れた。旧植民地信託銀行は1968年パットマン報告書によるとボストンの信託資産総額における38.0%を運用した。1996年にボストン銀行となり、2005年にバンカメとなった。
アメリカ合衆国が独立してからも国際貿易港であるボストンは栄え続けた。輸出品は従来と変わらずラム酒・魚・塩・タバコなどであった[34]。当時、初期の入植者の子孫たちは、国の社会的・文化的エリートと見なされるようになり、後にアダムズ家などを輩出しボストン旧家と呼ばれた[35]。彼らをふくむ保守派が、1786年に起こったシェイズの反乱をきっかけとして、アメリカ合衆国憲法を制定しようとする政治活動に発破をかけた[36]。
ナポレオン戦争中に制定された1807年通商禁止法と1812年戦争により、ボストン・カナダ間の貿易業はかえって保護・独占的となり栄えたが、それは政府の規制が及ばなかったので戦時中も継続した[37]。その間に製造業が市の経済の重要な要素となり、それは1800年代半ばまでに経済的な重要性において国際貿易を抜いた。1900年代初めまで、ボストンは全米で最大の製造業の中心地の一つとなり、被服・皮革製品の生産で知られた[10]。市の周りを流れる小河川網によって市と周辺地域がつながれていたことで、商品の出荷が容易になり、工場の数は激増した。その後は緻密な鉄道網によってこの地域の産業・商業の発展が促された。 1822年にボストン市民の投票により、正式名称がザ・タウン・オブ・ボストンからザ・シティ・オブ・ボストンへと変更された[38]。1822年3月4日、市民により、市の設立憲章が受諾された[39]。ボストンが市へ移行した当時、人口は4万6226人であり、市域はわずか12km2(4.7 mi2)であった[39]。1830年にボストン旧家のエイモリー家を当事者としたハーバード大学対エイモリー
投資家の130年に渡る大航海
1820年代にボストンの人口が増え始めた。1840年代後半のジャガイモ飢饉では多くのアイルランド人がアメリカ大陸へわたってきて、ボストン市の民族的構成を劇的に変化させた[41]。1850年までに、ボストンに住むアイルランド人は約3万5000人に達していた[42]。ボストン旧家のエイモリー・ローウェルは、当然のようにハーバード大学を卒業し、手形交換所であるサフォーク銀行の経営者となった。彼がボストンの銀行間に連携組織をつくり、1837年から1857年までの経済恐慌に事なきを得たので、政治と血縁による絆が従来に増して堅くなった[43]。
1847年にオールド・コロニー鉄道でミルトンと結ばれた。ミルトンはボストン旧家の避暑地であったが、鉄道開通により閨閥の集住地となった。
19世紀後半、ボストンに住み始めるアイルランド人・ドイツ人・レバノン人・シリア人・フランス系カナダ人・ユダヤ系ロシア人・ユダヤ系ポーランド人の数が増えていった。19世紀の終わりには、ボストンの中心部が互いに異なる民族の移民居住地でモザイク化していた。イタリア系はノースエンド、アイルランド系はサウスボストンとチャールズタウン、ロシア系ユダヤ人はウェストエンドに住んだ。