ナポレオン戦争中に制定された1807年通商禁止法と1812年戦争により、ボストン・カナダ間の貿易業はかえって保護・独占的となり栄えたが、それは政府の規制が及ばなかったので戦時中も継続した[37]。その間に製造業が市の経済の重要な要素となり、それは1800年代半ばまでに経済的な重要性において国際貿易を抜いた。1900年代初めまで、ボストンは全米で最大の製造業の中心地の一つとなり、被服・皮革製品の生産で知られた[10]。市の周りを流れる小河川網によって市と周辺地域がつながれていたことで、商品の出荷が容易になり、工場の数は激増した。その後は緻密な鉄道網によってこの地域の産業・商業の発展が促された。 1822年にボストン市民の投票により、正式名称がザ・タウン・オブ・ボストンからザ・シティ・オブ・ボストンへと変更された[38]。1822年3月4日、市民により、市の設立憲章が受諾された[39]。ボストンが市へ移行した当時、人口は4万6226人であり、市域はわずか12km2(4.7 mi2)であった[39]。1830年にボストン旧家のエイモリー家を当事者としたハーバード大学対エイモリー
投資家の130年に渡る大航海
1820年代にボストンの人口が増え始めた。1840年代後半のジャガイモ飢饉では多くのアイルランド人がアメリカ大陸へわたってきて、ボストン市の民族的構成を劇的に変化させた[41]。1850年までに、ボストンに住むアイルランド人は約3万5000人に達していた[42]。ボストン旧家のエイモリー・ローウェルは、当然のようにハーバード大学を卒業し、手形交換所であるサフォーク銀行の経営者となった。彼がボストンの銀行間に連携組織をつくり、1837年から1857年までの経済恐慌に事なきを得たので、政治と血縁による絆が従来に増して堅くなった[43]。
1847年にオールド・コロニー鉄道でミルトンと結ばれた。ミルトンはボストン旧家の避暑地であったが、鉄道開通により閨閥の集住地となった。
19世紀後半、ボストンに住み始めるアイルランド人・ドイツ人・レバノン人・シリア人・フランス系カナダ人・ユダヤ系ロシア人・ユダヤ系ポーランド人の数が増えていった。19世紀の終わりには、ボストンの中心部が互いに異なる民族の移民居住地でモザイク化していた。イタリア系はノースエンド、アイルランド系はサウスボストンとチャールズタウン、ロシア系ユダヤ人はウェストエンドに住んだ。アイルランド系とイタリア系の移民はローマ・カトリックを持ち込んだ。多様な民族が多様な資本をもちこみ、困窮しがちな移民を互いに独立した慈善組織が世話していたが、見かねた市は公的かつ一元的な救貧政策を打ち出した[44]。ドーチェスターの丘から望んだボストン(1841年)
19世紀半ばから末にかけて、ボストン旧家は手厚く文芸を支援した。ナサニエル・ホーソーン、ヘンリー・ワズワース・ロングフェロー、オリバー・ウェンデル・ホームズ・シニア、ジェイムズ・ラッセル・ローウェル、ジュリア・ウォード・ハウ、ジョン・ロスロップ・モトリー、ジョージ・バンクロフト (歴史家)、サミュエル・モリソン、ラルフ・ワルド・エマーソン、メリー・ベーカー・エディなどの作品が知られる。エマーソンはミルトン閨閥である。
また、ボストンは奴隷制度廃止運動の中心地ともなった[45]。サミュエル・ジョンソン[46] はチャールズ・フォックス・ホベイのパートナーであったが、ともにウィリアム・ロイド・ガリソンを支援した。ボストンは、1850年の逃亡奴隷法に強く反対し[47]、1854年のバーンズ逃亡奴隷事件の後、フランクリン・ピアース大統領はボストンを見せしめにしようとした[48][49]。