1630年9月7日にイングランドから来た清教徒たちの手によってショーマット半島に築かれた[11]。マサチューセッツ湾植民地の清教徒は、1620年にプリマス植民地(現在のマサチューセッツ州ブリストル郡、プリマス郡、バーンスタブル郡)を建設した入植者(ピルグリム)と混同されることがある。しかし、両者は異なる宗教的実践を有しており、歴史的に見て別々のグループである。ボストンはオリバー・クロムウェルの台頭から当分ロイヤリストであるアンソニー・アービー一族の地盤だった[24]。1652年造幣局が設立されたが、まだ鉱山開発の余裕も技術もない時代であったのでずっと銀貨を悪鋳しており、1684年に本国が植民地の特許状を取り消し閉鎖してしまった[25]。1691年10月7日にプリマス植民地をメイン植民地などと共にマサチューセッツ湾植民地に付属するという公式宣言がなされ、マサチューセッツ湾岸県が設立された。この宣言は翌年5月14日に有効になった[26]。
ボストンは17世紀にアカディアと交易して繁栄した。カナダは麦・魚・毛皮を産した。しかし通貨供給量が足りなかった。原住民の貝殻玉を1670年まで法貨とするほどであったが、サンゴバン等のガラス製レプリカにより価値を喪失した。そこでアカディアの商人は、特産物の倉荷証券と引き換えにボストンから生活物資を調達した。ポート・ロワイヤルの要塞を守る軍靴等がボストンから調達された。ボストン商人もアカディアへ出張した。ポート・ロワイヤルに倉庫をもって、砂糖・蜜・酒・服・食器・その他日用雑貨を売った。結果としてフランスからカナダへ送られた正貨は慢性的に流出した。イギリス・フランス間のアカディアはドイツ・フランス間のアルザスと似て、国益より地縁と商売を取った。[27][28]
地元教会と懇ろであったボストン商人ヒュー・ホール・ジュニアは、ジョン・レバレットの孫(祖父に同名、7代目ハーバード大学学長)に南海会社重役へ紹介してくれるよう頼んでいた[29][注釈 1]。1720年に南海泡沫事件が起こった。
1721年から翌年にかけて、ボストンに天然痘が大流行した。接種技術は輸入された。フリーメイソンを含む人、そして物・金・郵便・病原体がボストン港で往来した。1721年と1728年には土地を担保に発券する公立銀行が設立された。市場経済に巻き込まれた農民・職人勢力の一部からも支持されて、反体制派の中産階級が通貨不足を打開するという目的で設立を推進した[30]。1739年から1740年代初頭にかけて植民地では、銀行券を土地兌換とするか、または厳格に銀兌換とするかで、前者を支持する中産階級以下と、後者を支持する大商人・大地主との間に、深刻な対立・抗争が起こった。1741年に銀行規制法ができて、これら土地兌換銀行と銀兌換銀行の両方を解散させてしまった。ジョージ王戦争の戦費を調達するため政府証券が増発されて、銀行・通貨をめぐる改革運動は立ち消えとなった[31]。関税官吏ジョン・マルコムを襲うボストン市民。左手ではその数週間前に起きたボストン茶会事件で茶が投げ捨てられる場面が描かれている。(1774年1月)
七年戦争が起こる頃にはイングランド銀行の金融力がイギリス帝国を支配した。1770年代にイギリスは主に課税面で13植民地に対する支配を強めようとした。このことが、ボストン市民をアメリカ独立戦争の開戦へ駆り立てることとなった[11]。ボストン虐殺事件とボストン茶会事件に加え、レキシントン・コンコードの戦い・バンカーヒルの戦い・ボストン包囲戦などの初期のいくつかの戦闘もボストンまたはその近郊で起こった。