ボストン
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市内及び周辺地域には世界トップクラスの高等教育機関があり[12]、法学・経済学・医学・機械工学の分野は特に有名である[13]。ボストンは金融・ビジネスサービス・バイオテクノロジー・ITテクノロジー関連の企業が多く、面積当たりの雇用の数はニューヨークワシントンD.C.に次いで多い[14]

ボストンからは数々の有名な投資家が世に出て、アメリカ投資信託の清算制度をめぐりニューヨークの同業と競い、また一般投資家の世論を相手に戦った。結果として20世紀の後半にジェントリフィケーション(高級住宅地化と低所得者の排除)が進み[15]、家賃・地価は1990年代から急激に上昇している[16]。かつてのボストン金融街の名を冠するステート・ストリート、またミューチュアル・ファンド大手のフィデリティ・インベストメンツの本社が立地する。

世界の143主要都市を対象とした2008年の調査ではボストンは生活費の高さで99位にランクされている[17]。他方で、ボストンは「住みやすい都市」の評価で上位にランクされる[18]。世界の215主要都市を対象とした2009年の調査では、ボストンは住みやすさで35位にランクされている[19]。治安も良く、アメリカ国内でも最も安全な都市の一つとされている[20]

2019年、世界都市ランキングにおいて世界第21位の都市と評価されており[21]、アメリカではニューヨークロサンゼルスシカゴワシントンD.C.に次ぐ第5位であった。2021年、イギリスシンクタンクの調査で世界12位の金融センターと位置付けられた[22]
歴史詳細は「ボストンの歴史(英語版)」を参照
開拓・独立後の製造業植民地時代のボストン。昔のショーマット半島は、狭い地峡だけで本土へつながり、マサチューセッツ湾とチャールズ川河口のバックベイに囲まれていた。市内でネイティブ・アメリカンらの遺跡が発掘されており、それによれば紀元前5000年から人が居住していた[23]

1630年9月7日にイングランドから来た清教徒たちの手によってショーマット半島に築かれた[11]マサチューセッツ湾植民地の清教徒は、1620年にプリマス植民地(現在のマサチューセッツ州ブリストル郡プリマス郡バーンスタブル郡)を建設した入植者(ピルグリム)と混同されることがある。しかし、両者は異なる宗教的実践を有しており、歴史的に見て別々のグループである。ボストンはオリバー・クロムウェルの台頭から当分ロイヤリストであるアンソニー・アービー一族の地盤だった[24]。1652年造幣局が設立されたが、まだ鉱山開発の余裕も技術もない時代であったのでずっと銀貨を悪鋳しており、1684年に本国が植民地の特許状を取り消し閉鎖してしまった[25]1691年10月7日にプリマス植民地をメイン植民地などと共にマサチューセッツ湾植民地に付属するという公式宣言がなされ、マサチューセッツ湾岸県が設立された。この宣言は翌年5月14日に有効になった[26]

ボストンは17世紀にアカディアと交易して繁栄した。カナダは麦・魚・毛皮を産した。しかし通貨供給量が足りなかった。原住民の貝殻玉を1670年まで法貨とするほどであったが、サンゴバン等のガラス製レプリカにより価値を喪失した。そこでアカディアの商人は、特産物の倉荷証券と引き換えにボストンから生活物資を調達した。ポート・ロワイヤルの要塞を守る軍靴等がボストンから調達された。ボストン商人もアカディアへ出張した。ポート・ロワイヤルに倉庫をもって、砂糖・蜜・酒・服・食器・その他日用雑貨を売った。結果としてフランスからカナダへ送られた正貨は慢性的に流出した。イギリス・フランス間のアカディアはドイツ・フランス間のアルザスと似て、国益より地縁と商売を取った。[27][28]

地元教会と懇ろであったボストン商人ヒュー・ホール・ジュニアは、ジョン・レバレットの孫(祖父に同名、7代目ハーバード大学学長)に南海会社重役へ紹介してくれるよう頼んでいた[29][注釈 1]。1720年に南海泡沫事件が起こった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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