ボストン糖蜜災害
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直接的に被害を受けた地域の清掃には数百名もの人々が参加したが2週間を要した[4]:132-134, 139[10][13]。残りのグレーター・ボストンとその近郊の清掃にはさらに時間を要した。救助担当者や清掃担当者、そして見物人たちが街を移動するときに糖蜜を踏みつけ、地下鉄のプラットフォーム、地下鉄や市電の電車内の座席、公衆電話、住居[3][4]:139、その他無数の場所に糖蜜を広げていってしまったのである。ボストンのありとあらゆるものがねばねばとしていたという[3]
死者

氏名年齢職業
Patrick Breen44労働者 (ノースエンド・ペイヴィング・ヤード <英: North End Paving Yard>)
William Brogan61御者
Bridget Clougherty65主婦
Stephen Clougherty34無職
John Callahan43舗装工 (ノースエンド・ペイヴィング・ヤード)
Maria Di Stasio10児童
William Duffy58労働者 (ノースエンド・ペイヴィング・ヤード)
Peter Francis64鍛造工 (ノースエンド・ペイヴィング・ヤード)
Flaminio Gallerani37運転手
Pasquale Iantosca10児童
James H. Kenneally不明労働者 (ノースエンド・ペイヴィング・ヤード)
Eric Laird17御者
George Layhe38消防士 (消防車31号)
James Lennon64御者 / 電車運転手
Ralph Martin21運転手
James McMullen46職長、ベイステート・エクスプレス (英: Bay State Express)
Cesar Nicolo32運送屋
Thomas Noonan43港湾労働者
Peter Shaughnessy18御者
John M. Seiberlich69鍛造工 (ノースエンド・ペイヴィング・ヤード)
Michael Sinnott78電報速達吏

情報源:[4]:239[9][14]
原因後に事故を起こした糖蜜貯槽 (撮影日不明)

糖蜜災害の原因には複数の要因が関与していた可能性がある。貯槽は粗雑に建設され、十分に試験されていなかった。また、貯槽内で起こった発酵により二酸化炭素が発生し、貯槽の内圧が上昇して破裂した可能性もある。事故の前日の気温の上昇が内圧の増加を助長したと考えられる。この時期は気温が-17℃から5℃にまで上昇していた。貯槽の基礎の近くのマンホールの蓋の所から破損が発生し、材料の劣化による亀裂が致命的な段階にまで成長した可能性もある。

貯槽が数年前に建築されて以来、満杯になったのは8回しかなく、貯槽の壁には断続的かつ周期的に負荷がかかっていた。数名の著述家が、ピュリティ・ディスティリング・カンパニーは法律による規制が成立する前に急いで製品を生産しようとしていたと述べている[15][16][17]。当時、禁酒法が翌日 (1919年1月16日) に裁可され、翌年に発効することになっていた[18]。また、糖蜜災害の後に行われた調査により、貯槽の建築の監督者だったアーサー・ジェル (英: Arthur Jell) が貯槽に水を入れて漏洩の有無を確認するという基本的な安全試験 (いわゆる水張試験・水張検査) を怠っていたことや、貯槽に糖蜜を入れる度にうなるような音が鳴っていたという危険な兆候を無視していたことが判明した[2]。ジェルはUSIAの会計係であり、建築・工業分野の経験が無かった[6]。糖蜜を入れたとき、貯槽からひどく漏洩したため、漏洩を隠すために貯槽は茶色に塗装された。地元の住人は漏れた糖蜜を集めて家へ持ち帰っていた[19]。さらに、2014年の調査では、現代の工学技術による分析が行われ、これにより、使用されていた鋼鉄材が貯槽の大きさに対して決められた厚さの半分しかなかったことが判明した。しかも、それは当時の厳密でない基準のうえでの話である。また、鋼鉄材にはマンガンが含まれておらず、それにより余計に脆くなっていた[20]。貯槽の鋲も亀裂が入っていたようで、亀裂が最初に生じたのは鋲の穴だった[2]

その後、2016年に、ハーバード大学の科学者と学生のチームが糖蜜災害について大規模な調査を行った。調査の際、1919年の新聞記事や古い地図、天気予報といった多数の情報源からデータを収集した[21]。研究学生たちは被害地域の縮尺模型に冷えたコーンシロップを溢れさせて挙動を調べるという研究も行った。糖蜜災害の際に糖蜜の洪水が急速に街を襲ったと報告されていたが、研究者たちはそのような現象は発生しうると結論付けた[22]。糖蜜災害の2日前、運搬しやすいように外気よりも温度の高い状態で糖蜜が貯槽に加えられ、糖蜜の粘性が低下した。貯槽が破裂したとき、糖蜜は街を広がっていくほどに温度が低下した。こうして冷やされていくことで糖蜜の粘性は劇的に増加した。糖蜜の温度は当時のボストンの冬の夕方の気温と同じ温度になるまで低下していった[23]。ハーバード大学の研究では、糖蜜は街を広がっていくほどに温度が下がって急速に濃度を増し、これにより被害者が窒息する前に救助しようという試みを妨げることになったという結論になった[21][22][24][25]
被害地域の現在糖蜜災害の記念碑

USIAは貯槽を再建しなかった。貯槽とノースエンド・ペイヴィング・カンパニー (英: North End Paving Company) がかつてあった土地はボストン高架鉄道 (マサチューセッツ湾交通局の前身) の作業場となった。現在では市が所有する娯楽用の総合施設となった。正式名称は「ランゴン・パーク」 (英: Langone Park) であり、リトルリーグの野球場、運動場、ボッチ(英語版)用のコートが特色である[26]。そのすぐ東にはさらに規模の大きいパオポロ・パーク (英: Puopolo Park) があり、こちらも娯楽用の施設を保有している[27]

パオポロ・パークの入口にはボストン市民協会が設置した小さな記念碑が設置されており、糖蜜災害を今に伝えている[28]。記念碑には"Boston Molasses Flood" (日: ボストン糖蜜洪水) という題名が付けられており、次の文面が記されている。1919年1月15日、商業通り529番地にあった糖蜜貯槽に圧力がかかって破裂し、21名が死亡した。40フィート (12メートル) の糖蜜の波が高架鉄道の軌道を捻じ曲げ、建物を破壊し、地域に溢れ返った。貯槽の構造上の欠陥が季節外れの温かい気温と合わさってこの災害を招いた。

糖蜜災害が起きて以来、糖蜜の洪水がもたらした損傷のためだけでなく、災害後も数十年間ノースエンドを充満し続けた甘い匂いのため、この事故は地元の文化の主要な要素となっている。ジャーナリストのエドワーズ・パークは、糖蜜の匂いは数十年もの間、紛れもなくボストンの独特の空気であり続けたと述べた[3]

2019年1月15日、糖蜜災害の100周年のイベントのために記念式典が開催された。地中探査レーダを使用して、1919年に貯槽があった正確な場所が突き止められた。ランゴン・パークの野球場の内野の場所から約50センチメートル下に、貯槽の基礎だったコンクリートの厚板が残っていたのである。式典の参加者たちは貯槽の縁の位置を示す円の中に立った。そして、糖蜜の洪水が原因で死亡した21名の名前を読み上げた[29][30]
文化への影響

糖蜜災害が直接的な原因となり、建設の基準を規定する数多くの法律や規制が改正された。その中には、建築の際には資格を持つ建築士と土木技師の監督が必要という規定も含まれる[6][31]

ボストンで観光業を営むボストン・ダック・ツアーズ(英語版) (英: Boston Duck Tours) という会社には、遊覧用のDUKWにボストンの著名な地名や出来事などに由来する名前を付ける慣習がある。あるDUKWには糖蜜災害にちなんで「Molly Molasses」 (日: モリー・モラシーズ、molassesは「糖蜜」という意味) という名前が付いている[32]

また、マサチューセッツ工科大学では「MITミステリーハント(英語版)」というパズルゲームのイベントが年に1回開催されており、2019年のテーマとして糖蜜災害が選ばれている[33]

ポーランドのコンピュータゲーム開発・販売企業CD Projektには、ボストンに「The Molasses Flood」という名の開発スタジオがある。
出典^ Associated Press (2019年1月14日). “Great Molasses Flood: US marks 100 years since deadly wave of treacle trashed part of Boston”. South China Morning Post. https://www.scmp.com/news/world/united-states-canada/article/2182032/great-molasses-flood-us-marks-100-years-deadly-wave 2019年3月18日閲覧。


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