ボケ_(漫才)
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漫才史研究者の神保喜利彦は、「漫才はなんでもあり」だったからこそ、ここまでの地位に上り詰めることができたと述べている[4]
ボケとツッコミ

漫才は基本的に「ボケ」と「ツッコミ」という2つの役割で成り立っている。それぞれ古典萬歳の「才蔵」と「太夫」に由来する[5]

「ボケ」は、冗談を言う、話題の中に明らかな間違いや勘違いなどを織り込む、笑いを誘う所作を行う、などの言動によって、観客の笑いを誘うことが期待される役割である。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}ボケは、もともととぼけ役と呼称されていた。芸席において紹介のつど「つっこみ(役)・とぼけ(役)」と称されていたことが、のちに「つっこみ・とぼけ」→「つっこみと、ぼけ」のように転じた。[要出典]

「ツッコミ」は、ボケの間違いを要所で指摘し、観客に笑いどころを提示する役割である。明治・大正の一時期には「シン」と呼称した[6]。ツッコミは、口頭で指摘するほかに、ボケの体のどこかを、平手・手の甲・小道具などで叩く(ドツキ)、または足で蹴ることでそれに代える場合がある。秋田實の論文[要出典]によれば、玉子屋円辰が『曽我物語』を歌った際の、代役の太鼓たたきとのやり取りがツッコミの始まりという。

ボケ・ツッコミの役割分担は必ずしも固定的ではなく、流れによってボケとツッコミが自然に入れ替わる展開を用いるコンビもある[5]。例えば、ボケ役の冗談に対し、ツッコミ役がツッコまずに「ノる」、つまりボケに一時的に同調し、ある程度ノッた後にツッコミを入れてオチを付ける芸(ノリツッコミ)などである。このため、ボケとツッコミは「役柄」というよりは、やり取りのさまを概念化したものと考えるのが妥当である。

トリオ漫才(役割が固定された場合)においては、ボケ2人・ツッコミ1人の比率が主流である。ネタの役割分担によって、フリ(後述)にあたる小さいボケを「小ボケ」、オチに至る大きいボケをする者を「大ボケ」、と区別することもある。
フリ

上記の役割と兼ねて、「筋フリ[7]」または「フリ」という、ネタの構成を進行・展開・転換する役割を、メンバーのいずれかが担わなければならない。『大辞泉』の「ツッコミ」の項は「漫才で、ぼけに対して、主に話の筋を進める役」としており、ツッコミがフリを担う、と定義しているが、ボケがフリを担当するコンビも少なくない。

ボケ・ツッコミが固定したコンビを仮定した場合、ツッコミが進行するコンビ、ボケが進行するコンビ、ボケ・ツッコミ双方が進行するコンビの3種が考えうる。
漫才のスタイル

前田勇は自著において、漫才を、以下の4類10種に分類した[8]。漫才師の芸およびネタは、これら10種の要素を、どれかひとつ特化させているか、または組み合わせている。

音曲漫才

俗曲漫才俗曲(民謡俗謡)の類を主とするもの。三人奴などが該当する[9]

語りもの漫才浄瑠璃浪曲琵琶語りの類を主とするもの。昭和中期における浪曲漫才の諸グループ(玉川カルテット宮川左近ショーなど)が該当する[10]

歌謡漫才流行歌歌謡曲の類を主とするもの。かしまし娘暁伸・ミスハワイタイヘイトリオフラワーショウなどや、音楽ショウと総称された諸グループ(あきれたぼういず小島宏之とダイナブラザーズあひる艦隊横山ホットブラザーズなど)が該当する[11]

曲弾き漫才楽器の曲芸的演奏を主とするもの。市川福治・かな江桜津多子・桜山梅夫都上英二・東喜美江などが該当する[12]


踊り漫才本格的舞踊を滑稽にくずして見せるもの。砂川捨丸・中村春代の捨丸による「舞い込み」や、松葉家奴・喜久奴の奴による「魚釣り」などが該当する[13]

しぐさ漫才

寸劇漫才舞台劇、劇映画などの断片を模写するもの。砂川捨丸・中村春代による『金色夜叉』、チャンバラトリオによる一連のパロディなどが該当する[14]

身振り漫才身振り、表情を主とするもの。吉田茂・東みつ子の茂による「かぼちゃ」などが該当する[15]

仮装漫才仮装を見せるもの。コントのように役柄を演じるためではなく、仮装それ自体で笑いを誘うことを旨とする。松葉家奴・喜久奴の奴が和服の裏地に「火の用心」などの言葉を染め抜いておき、タイミングよく観客に示すギャグなどが該当[16]


しゃべくり漫才

掛け合い漫才掛け合いでしゃべるもの[17]並木一路内海突破夢路いとし・喜味こいしが該当。

ぼやき漫才1人がしゃべり続け、相方は相槌を打つだけのもの。本質的には漫談である。都家文雄によって創始され、弟子の人生幸朗・生恵幸子東文章・こま代に受け継がれた。このほか、西川のりお・上方よしおなどが該当する[18]


しゃべくり漫才・コント漫才

現代の漫才を大きく二つに分けた場合、「しゃべくり漫才」と「コント漫才」に分かれる。

しゃべくり漫才とは、日常の雑談や時事を題材に掛け合いのみで笑わせる漫才を指す。創始者は、横山エンタツ花菱アチャコ。1980年代の漫才ブーム以降、上述の音曲漫才や歌謡漫才は急速に廃れ、しゃべくり漫才が漫才の王道・正統派とされるようになった。しゃべくり漫才の定義について、ナイツ塙宣之は「キッチリ定義することは難しいが、あえて言うならば、しゃべくり漫才とは日常会話だと思います」と語っている[19]

コント漫才とは、「お前コンビニの店員やって、俺は客やるから」とコントに入っていくパターンの漫才を指す。衣装や小道具、効果音を使わずに、立位置もそのままで設定した役になりきるという点でコントとは異なる。設定を振ってコントに切り替えることを、符牒でコントインと呼ぶ。センターマイクから離れることも多いため、しゃべくり漫才と比べて邪道とされることもある[注 2]

近年では「俺コンビニ店員するから、お前はそこで見てて」というように、ボケが独自の世界観に没入し、ツッコミはその邪魔にならないように外から指摘するコント漫才も増えている。
歴史
萬歳から万才へ正月の祝賀会で萬歳を披露する2人組を描いた19世紀日本画(作者不明)。「萬歳#歴史」も参照

平安時代以来祭礼における派遣(予祝芸能)や家々を回る門付の芸能であった萬歳は、18世紀前半の上方で小屋掛けの芸として演じられるようになり[20]、18世紀末(天明期)には生國魂神社八坂神社に常設の小屋が開設されるに至った。この小屋芸としての萬歳は宮中における奉納などのための形式(御殿萬歳・宮中萬歳)とは異なり、2人組による滑稽な会話による笑芸で、大阪俄の前座における軽口(かるくち。掛け合い、掛け合い噺とも)と重なりがあった[21]

この萬歳小屋は、その軽口や、落語の台頭のために廃れた[20]が、幕末期になり、萬歳は新たな寄席芸として息を吹き返す。これは尾張萬歳三河萬歳の影響を直接的に受けた「三曲萬歳(さんぎょくまんざい)」と呼ばれる形式で、胡弓三味線という3種の楽器を持った多数の萬歳師が、小咄の掛け合い、言葉遊び数え歌などの合間に、音曲でにぎやかにはやし立てるものである。


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