ボグド・ハーン
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ボグド・ハーンの死後、共産主義政権はもはや活仏の転生を認めず、モンゴル人民共和国の建国を宣言した。
転生問題

ジェプツンダンパ8世の転生問題について、人民革命党政権は「従来からのボグド・ハーンにまつわる伝承」を用いて、「第八代をもってこのホトクトは転生を終わる」と説明し[6]、政府として後継者を捜索・認定しないのみならず、信者や教団による捜索・認定も禁止しようとした。

しかしながらモンゴル国内の信者たちや、チベットで独自に転生者を探す動きが見られた。モンゴル国内では、1926年にジェプツンダンパ8世の元側近ヨンドンがボグド・ハン・オール・アイマクのノヨン・オール・ホショーの一婦人ツェンドジャブの子息を8世の転生者として擁立しようとした[7]。モンゴルの人民革命党政権は、モンゴル国内におけるこの種の動きは阻止できたが、チベットのガンデンポタン摂政政府による認定(1939年)は阻止できなかった。この時、認定されたジャンペルナムドゥル・チューキゲンツェン(1932年 - 2012年)については、モンゴル国で社会主義一党独裁体制が崩壊したのちの1990年、当時のオチルバト大統領からの照会に対し、チベット亡命政府ダライ・ラマ14世が改めてジェプツンダンパ9世としての認定を行った。晩年はモンゴル国籍を取得し、モンゴルとインドを行き来していたが、2012年3月1日に遷化した。
私生活と宮殿テンジン・ドンドグラム

ジェプツンダンバ・ホトクト8世は僧侶にもかかわらず、テンジン・ドンドグラム(英語版)という名の、エヘ・ダギナ(荼枳尼天母)として知られていた妻を娶っていた。彼女は1923年に死去した。テンジン・ドンドグラム王妃の死後、ゲネピルという名の北方出身の女性が王妃の座に選ばれるが、一年も経たずして1924年、ジェプツンダンバ・ホトクト8世が逝去する。その後、ゲネピル(英語版)は実家に戻り生活するが、モンゴル人民共和国のスターリン派による粛清(英語版)により1938年に処刑されることになる。

ボグド・ハーンの夏の宮殿跡地には政府宮殿が建っている。冬の離宮は保存され、今はウランバートルの観光名所となっている。
年号

共戴 : 1911年 - 1924年

発言

ジェプツンダンバ・ホトクト8世からすれば、乾燥した大地にをまいて、草原を砂漠に変えてしまう中国人はまさに生態の破壊者であり、自らの故郷を守り、不倶戴天の敵を追放するプロセスのなかで、草原に侵入してきた中国人を指して、以下のような命令を出した[8]。中国人とつきあうな! 中国人のまねをしたりすれば、死ぬ。モンゴルの各地に入って、草原を開墾して大地を黄色くしてしまった中国人どもを殲滅させよう。南へむかって駿馬を駆ってうってでよう。 ? ジェプツンダンバ・ホトクト活仏
関連項目

ジェプツンタンパ1世 ロブサン・ダンビジャンツァン(ロサン・テンペーゲンツェン)、ザナバザル、ジュニャーナヴァジュラ (1635年 - 1723年)

ジェプツンタンパ2世 ロブサン・ダンビトゥンミ(ロサン・テンペートンメ) (1724年 - 1757年)

ジェプツンタンパ3世 イシ・ダンバニャム(イェシェ・テンペーニマ) (1758年 - 1773年)

ジェプツンタンパ4世 ロブサン・トゥブダンワンチュク(ロサントゥブテンワンチュク・ジグメギャムツォ) (1775年 - 1813年)

ジェプツンタンパ5世 ロブサン・チュルテムジグミッド(ロサンツルティムジグメ・テンペーギェンツェン) (1815年 - 1841年)

ジェプツンタンパ6世 ロサン・テンペーギェンツェン (1842年/1843年 - 1848年)

ジェプツンタンパ7世 ガワン・チューキワンチュク・ティンレーギャムツォ (1849年/1850年 - 1868年)

ジェプツンタンバ9世 ジャンペルナムギャル・チューキギェンツェン (1932年 - 2012年)

脚注[脚注の使い方]
注釈^ その要因は、ジェプツンタンパ2世が、かならずしも朝に忠実な行動をとらなかったことだと考えられている。[3]

出典^ .mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}Sanders, Alan J. K. (2008). "Chronology". Historical Dictionary of Laos (Third ed.). Scarecrow Press. pp. xlvii. ISBN 9780810861916
^ a b c d 二木博史 2007, p. 71
^ 二木博史 2007, p. 83
^ Baabar, Bat-?rd?ni?n Baabar, Christopher Kaplonski, Twentieth century Mongolia1 , White Horse Press, 1999, p.188.
^ 宮脇淳子『世界史のなかの満洲帝国』PHP研究所〈PHP新書 ; 387〉、2006年。ISBN 4569648800NCID BA75563767。https://id.ndl.go.jp/bib/000008096660。 
^ 『モンゴル史』(1), p. 526, 第4章注(二〇).
^ 『モンゴル史』(1), p. 260.
^ 楊海英『遊牧民からみた「文明の生態史観」』河出書房新社〈梅棹忠夫---地球時代の知の巨人〉、2011年4月14日、141頁。ISBN 4309977529。 

参考文献

モンゴル科学アカデミー歴史研究所編著, 二木博史『モンゴル史』 (1)巻、恒文社〈全2冊〉、1988年。ISBN 4770406789全国書誌番号:89029304。 

二木博史「「チベット人活仏がモンゴル国王として即位するための条件―19世紀すえのモンゴル語文書史料の分析」」『文書史料からみた前近代アジアの社会と権力』〈東京外国語大学大学院21世紀COEプログラム「史資料ハブ地域文化研究拠点」研究叢書〉2007年、71-99頁。ISBN 9784925243360。https://hdl.handle.net/10108/24609。 

ボグド・ハーン


1869年 -1924年5月20日
爵位・家督
先代
ヘブト・ヨス・ハーン(宣統帝)モンゴル皇帝
1911年12月29日 - 1919年
1921年 - 1924年5月20日空位人民共和政に移行
宗教の称号
先代
ジェプツンタンパ7世ジェプツンダンバ・ホトクト


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