ホー・チ・ミン
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漢字チュノム:阮生恭
北部発音:グエン・シン・クン
日本語読み:げん せいきょう
英語表記:NGUYEN Sinh Cung
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ホー・チ・ミン(胡 志明、ベトナム語:H? Chi Minh / .mw-parser-output .vi-nom{font-family:"Nom Na Tong","Han-Nom Gothic","Han-Nom Ming","HAN NOM A","HAN NOM B","TH-Khaai-TP0","TH-Khaai-TP2","TH-Khaai-PP0","TH-Khaai-PP2","TH-Sung-PP0","TH-Ming-JP0","TH-Ming-JP2","TH-Sung-PP2","TH-Sung-TP0","TH-Sung-TP2","TH-Sy-P0","TH-Sy-P2","Ming-Lt-HKSCS-UNI-H","Ming-Lt-HKSCS-ExtB","FZKaiT-Extended","FZKaiT-Extended(SIP)","FZKaiS-Extended","FZKaiS-Extended(SIP)","Sun-ExtA","Sun-ExtB","MingLiU","MingLiU-ExtB","MingLiU_HKSCS","MingLiU_HKSCS-ExtB","SimSun","SimSun-ExtB",sans-serif}.mw-parser-output .vi-nom .ext{font-family:"Han-Nom Gothic","Han-Nom Ming","Han-Nom Minh","TH-Khaai-TP2","TH-Khaai-PP2","TH-Ming-JP2","TH-Sung-PP2","TH-Sung-TP2","TH-Sy-P0","TH-Sy-P2","Sun-ExtB","MingLiU HKSCS-ExtB","Ming-Lt-HKSCS-ExtB","HanaMinB","Han-Nom Kai",sans-serif}胡志明  発音[ヘルプ/ファイル], 1890年5月19日 - 1969年9月2日)は、ベトナム革命家政治家植民地時代からベトナム戦争までの、ベトナム革命を指導した建国の父である。初代ベトナム民主共和国主席ベトナム労働党中央委員会主席。

幼名はグエン・シン・クン(阮 生恭、ベトナム語:Nguy?n Sinh Cung / 阮生恭)、成年後はグエン・タト・タイン(阮 必成、ベトナム語:Nguy?n T?t Thanh / 阮必成)。第二次世界大戦までに使用していた変名のグエン・アイ・クォック(阮愛国、ベトナム語:Nguy?n Ai Qu?c / 阮愛國)でも広く知られる。ベトナム人民からは親しみを込めて『ホーおじさん(バク・ホー、ベトナム語:Bac H? / 伯胡)』の愛称で呼ばれている。
経歴
生い立ち

ホー・チ・ミンはフランスの植民地フランス領インドシナ)であったベトナム中部のゲアン省ナムダン県で生まれた。父の儒学者グエン・シン・サックの影響を受け、ホー・チ・ミンは幼少から論語の素読を学んで中国語を習得した。父が阮朝の宮廷に出仕するようになるとホー・チ・ミンも父とともに都のフエに移り、ベトナム人官吏を養成する国学フランス語も学ぶようになった[1]。しかし、在学中に農民の抗税運動(賦役納税に反対する運動)に携わったためにフランス当局から目を付けられて退学処分となった。
訪欧

その後、ラミラル・ラトゥーシュ=トレヴィル号という船の見習いコックとして採用されたホー・チ・ミンは、1911年6月5日サイゴンを出帆してフランスへと向かった。同年7月6日マルセイユに到着し、初めての外国暮らしを体験する。マルセイユのカフェでコーヒーを注文した際に、人生で初めてフランス人の従業員から「ムッシュ」と敬語で呼びかけられて感激するなど、このときの生活はホーにとって全てが物珍しかった。またフランス本国にも、植民地の原住民として虐げられているベトナム人と同様に貧しいフランス人が存在し、フランス人も一様ではないことも発見した[2]。この体験が後のホーの新国家建設にも影響することとなる。

9月15日に植民地学校の入学願書を提出した後、ホーはラミラル・ラトゥーシュ=トレヴィル号でいったんサイゴンへ戻った。役人を罷免されてコーチシナに移り、カンボジア国境近くのゴムプランテーションの労働者や薬の行商人として生活していた父を探すためである。ホーはコーチシナに数週間滞在し、再び同じ船会社の船でマルセイユへ向かった。

マルセイユに戻ったホーは、植民地学校の入学願書が不受理となっていたことを知り入学を断念する。ホーは「世界を見てみたい」と思い船員として働くことをその後に希望した。船員となったホーは各国を回った。

1913年にアメリカ合衆国を離れたホーは、英語を本格的に学ぶためにイギリスに移住したが、1917年12月にパリへ戻った。この年にロシア革命が発生、レーニンを支持するようになった[3]


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