ホータン市
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斡端宣慰使元帥府が設置され、モンゴル帝国の王族がホータンを統治した。マルコ・ポーロも『東方見聞録』の中で斡端についての記録を残し、農業と繊維業が盛んな都市であると記した[12]の時代になると于?の旧称が再び使用されるようになり、1406年にホータン王家は明に朝貢を行った[2]

15世紀以降のホータンは、モグーリスタン・ハン国ヤルカンド・ハン国ジュンガル部といった遊牧民族の支配を受けた。ヤルカンド・ハン国の支配下では、市内の東の一角に領主の城(旧城)が建てられた。1680年にヤルカンド・ハン国がジュンガルに滅ぼされると、ホータンはガルダン・ハーンが任命した白山党ホージャによって統治される。

1755年にジュンガル部がに平定されると、1760年にはホータンを統治していた白山党も清に滅ぼされ、ホータンは清の弁事大臣の管轄下に置かれた。清の統治下では、ホータンは地方統治の拠点の一つとして少数の官兵が配備される[9]。18世紀から19世紀にかけてホータンの人口は増加し、旧城の城壁の外に居住区が広がった[9]1828年、防備のために旧城に隣接した場所に新城が建設される[9]

1860年代の回族の反乱(回民蜂起)の際、ハッジー・パーディシャーがホータンに独立政権を樹立した。この時代、ホータンの周囲におよそ10kmにわたる城壁が建設されたが城壁は短期間で崩壊し、1884年に清が再建した新城壁の一部のみが現存する[9]1883年に和?直隷地が設置され、1913年に直隷地から県に改められた。
近現代「東トルキスタン共和国」も参照

1931年クムルの蜂起の後、ホータンでも中華民国の支配に対する蜂起が起きる。ホータンの勢力は他の都市の反乱軍と合流し、東トルキスタン共和国を形成した。ホータンの反乱を指導したムハンマド・エミン・ボグラは『東トルキスタン史』の著者としても知られている[13]

中華人民共和国の成立後に地名の簡略字化が進められ、1959年に和?県は和田県に改称された[2]1983年に和田県から市が分割された。
人口統計バザールのウイグル族

2000年当時のホータン都市部の人口は約170,000人[7]。12の民族が居住し、うち約83%をウイグル族、16.6%を漢族が占める[14]の時代、ウイグル族と漢族の居住区は分けられ、それぞれの民族は別々に生活していた[15]
地理・気候
地理

ホータン市はタリム盆地の南、チベットへと向かう崑崙山脈の北麓に位置している。崑崙山脈から流れるユルンカシュ川カラカシュ川に挟まれたオアシス都市である。合流してホータン川となるこれら2つの河川の水利によって都市は繁栄し、古来から農耕と果樹栽培が行われていた。「クルバック」と呼ばれる十字路が町の中心となっている。

現在のホータンの市街地は12世紀のカラハン朝の征服以後に建設されたと推定されているが、正確な建設時期は不明である[9]。于闐王国時代の王城は、ホータン市外に存在するヨートカン遺跡と比定されている[6][12]
気候

ホータンはケッペンの気候区分では砂漠気候(BWk)に属している。1年を通して降雨量は少なく、昼夜の温度差が大きい。春期、夏期にはしばしば風と砂ぼこりが発生する[14]

ホータン市の気候
月1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月年
最高気温記録 °C (°F)15.0
(59)22.0
(71.6)30.4
(86.7)34.6
(94.3)36.2
(97.2)39.8
(103.6)40.6
(105.1)40.2
(104.4)35.5
(95.9)30.0
(86)22.9
(73.2)21.2
(70.2)40.6
(105.1)
平均最高気温 °C (°F)0.8
(33.4)5.9
(42.6)14.8
(58.6)23.5
(74.3)27.6
(81.7)31.0
(87.8)32.4
(90.3)31.4
(88.5)27.2
(81)20.2
(68.4)11.1
(52)2.6
(36.7)19.0
(66.2)
平均最低気温 °C (°F)?9
(16)?4.4
(24.1)3.0
(37.4)10.2
(50.4)14.6
(58.3)17.7
(63.9)19.3
(66.7)18.3
(64.9)13.5
(56.3)6.0
(42.8)?0.9
(30.4)?7.1
(19.2)6.8
(44.2)
最低気温記録 °C (°F)?21.6
(?6.9)?18.2
(?0.8)?7
(19)0.2
(32.4)4.3
(39.7)8.1
(46.6)11.4
(52.5)9.1
(48.4)4.3
(39.7)?4.0
(24.8)?13.3
(8.1)?19.3
(?2.7)?21.6
(?6.9)
降水量 mm (inch)1.6
(0.063)2.0
(0.079)1.3
(0.051)1.5
(0.059)6.6
(0.26)8.2
(0.323)5.7
(0.224)4.9
(0.193)1.8
(0.071)1.3
(0.051)0.1
(0.004)1.5
(0.059)36.5
(1.437)
平均降水日数 (?0.1 mm)2.01.7.71.11.92.62.91.80.80.30.31.217.3
湿度54463529353843454443455542.7
平均月間日照時間167.8163.9185.8208.3234.5253.2242.5231.2240.0260.5221.1178.22,587
出典: ⇒China Meteorological Administration, NOAA (1961-1990, extremes only) [16]

産業
軟玉G315国道の橋の下のホータン川ユルンカシュ川)で白玉を探す。市場で売られている和田玉

ホータンは色鮮やかな高品質の軟玉ネフライト)の産地として有名であり、ホータンの軟玉は「和田玉(羊脂玉)」として知られている。中国で西域の事情が明らかになっていなかった時代、ホータンの軟玉は「禺氏の玉」「崑崙の玉」と呼ばれていた[4]。古代の中国で得られた軟玉はホータンが主産地であり、遊牧民族の月氏によって中国にもたらされていたが[4]紀元前176年に月氏が匈奴に駆逐されると、彼らの軟玉交易は終わりを迎える。

ホータン近郊のユルンカシュ川沖積層からは白い軟玉が採れるため、中国では「白玉河」とも呼ばれている。現在では白玉河の軟玉はほとんど採り尽くされているが、年に数kgの良質な軟玉が川の河床から採取されている。夏から秋の間にホータンの南の崑崙山脈の雪解け水が、山地の軟玉を下流のユルンカシュ川とカラカシュ川(中国語で黒玉河)へ押し流し、水流の減った秋になると現地の人間が川に入って河床の軟玉を足で探し出す[17]。夏になると崑崙山脈のマラマス鉱山で軟玉の採掘が行われているが[17]、ユルンカシュ川の玉と比べて品質は悪い[18][19]
織物ホータンの絹織物職人

古来中国の王朝とホータンの関係は密接であり、ホータンは中国へ製品を輸出したオアシス都市の中で最も古い都市の1つに数えられる。3世紀から4世紀にかけてホータンでは麻布、絹布が多く生産され、唐代の史書でも織物がホータンの特産品として挙げられている[6]644年にホータン(瞿薩旦那)を訪れた玄奘三蔵も、『大唐西域記』の中でホータンの織物とカーペットについて言及すると共に、「蚕種西漸」という伝承を記している。

「古代のホータンでは桑蚕が知られておらず、中国に養蚕の技術を求めたが、養蚕は門外不出の技術となっていた。中国の王女がホータン王の元に嫁いたとき、ホータン王は王女に桑と蚕を持ち出すように伝え、王女は帽子の中に蚕の卵と桑の種を隠してホータンに持ち出すことに成功し、ホータンに桑蚕が伝わったという。


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