ホンジュラス共和国(ホンジュラスきょうわこく、スペイン語: Republica de Honduras)、通称ホンジュラスは、中央アメリカ中部にある共和制国家。西はグアテマラ、南西はエルサルバドル、南東はニカラグアと接しており、北と東はカリブ海、南はフォンセカ湾を経て太平洋に面している。
国境は、グアテマラとは1933年にアメリカ合衆国の仲裁により、エルサルバドルとは1992年、ニカラグアとは2007年の国際司法裁判所の裁定により確定した[6]。
大陸部のほかに、カリブ海岸にスワン諸島、バイーア諸島を領有している。首都はテグシガルパ[7]。 正式名称はスペイン語で Republica de Honduras。通称、Honduras [on?du?as]
国名
公式の英語表記は Republic of Honduras。通称、Honduras [h?n?dj??r?s] ( 音声ファイル)。
日本語の表記はホンジュラス共和国。通称、ホンジュラス。
「ホンジュラス」は英語読みであり、スペイン語では「オンドゥラス」と発音する。この名の由来は、クリストーバル・コロン(クリストファー・コロンブス)が1502年にこの地に上陸しようとして船の碇を降ろしたが、海底まで届かなかったため、この地を「オンドゥラ(hondura、スペイン語で「深さ」「深み」を意味する名詞)」[9]と名付けたことによるという説がもっとも有名で一般的であるが、そのほかにも北西部の海岸に多くのヒカロの木が沈んでいたためなどの説がある。 考古学の調査から、国内数か所で紀元前1万年前から同3000年にさかのぼるパレオ・インディアン期から古期の居住痕跡が散発的に報告されている。しかし、人間居住に関する確実な考古学的証拠は定住村落が国内各地で成立するようになってからである。紀元前1600年ごろのスラ平原ウルア川河口域近くに存在したプエルト・エスコンディドは、国内最古級の定住遺跡である。先古典期段階ではオルメカ文明の影響力が強く、たとえば、北東部コロン県にあるクヤメル洞窟がオルメカ文明に並行する紀元前1200年から同400年ごろに埋葬がなされ、オルメカ様式の長頸壺や「炎の眉」を持つ蛇を刻んだ鉢などが確認されている。先古典期中期(紀元前1100年から前400年ごろ)に起源をもつナコは、ホンジュラス湾に注ぐウルア川の支流のチャメレンコ川中流域のナコ河谷にあって、長距離交易によって栄えた都市である[10]。このナコ河谷流域の特産物は、カカオ[注釈 1]・ケツァル鳥の羽[注釈 2]・銅の鉱床[注釈 3]・金などであり、支配者たちを政治・経済的に支える必要な土地となっていた[11]。ヤルメラの遺跡にあるレンカのピラミッド。 やや時代が下り、前800年ごろに国土の西端にあるモタグァ川流域のコパンでもグループ9N-8などでやはり同様の遺物が確認されている。先古典期中期から終末にかけて、コパンより東方のヨホア湖北岸にあるロス・ナランホス、ホンジュラス中央部ラパス県に位置するヤルメラが建設された。後者は30ヘクタールもの規模を持つ大センター
歴史詳細は「ホンジュラスの歴史」を参照国鳥コンゴウインコ
先コロンブス期
古典期に入ると、モタグァ川流域のコパンで、426年にテオティワカンの影響を強く受けた人物[注釈 4]キニチ・ヤシュ・クック・モーが新王朝を興した。コパンの全盛は第12代の「煙イミシュ」(位628年 - 695年)と13代の「18ウサギ」ないしワシャクラフン・ウバフ・カウィール(位695年 - 738年)のときで、神殿20、21、22と新しい球戯場を築くとともに、モタグア川上流、現グアテマラ領東端のキリグアに「カウアク空」ないしカック・ティリウを擁立し、その勢威を誇った。しかし、738年に当のカック・ティリウのために殺害され、以後、コパンは衰退することになる。
しかし、15代の「煙貝」もしくはカック・イピヤフ・チャン・カウィール(位749年 - 761年?)の築いた「神聖文字の階段」と呼ばれる神殿26号が753年に完成し、16代のヤシュ・パサフ(位763年 - 810年?)が776年に16代にわたる王の肖像を刻んだ祭壇Qを刻んだことが特記される。コパンが没落すると、衛星都市が紋章文字をもつようになって一時的に繁栄するが、古典期の終末までには放棄されていく。
スペイン植民地時代海賊からの防衛のためにスペイン人によって建設された要塞「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」も参照
1502年にはヨーロッパ人として初めてコロンブスが4度目の航海で到来した。1519年にスペイン人エルナン・コルテスがアメリカ大陸に上陸。1521年のアステカ帝国征服の余勢を駆ってこの地も征服した。
スペイン人がインディヘナを武力で服従させると、グアテマラ総督領として支配を行った。この地から豊富な金や銀などが産出するとスペイン人の植民が進んだ。インディヘナの中でもっとも大きな反スペイン運動となったのは、レンピーラというカシーケ(酋長)が1537年に起こしたものだったが、この反乱が鎮圧されると以降植民地化が進み、ホンジュラスもグアテマラ総督領の一部に組み入れられた。