ホロドモール
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ソ連政府の五カ年計画において、コルホーズ(集団農場)による農業の集団化や、クラーク(富農)撲滅運動において反ソ連分子を強制収容所グラグ)に収容したり[12]、さらに穀物の強制徴発、ノルマを達成しない農民への弾圧や処罰などを原因として発生した[7][2][13][11]。「富農」と認定されたウクライナ農民たちはソ連政府による強制移住により家畜農地を奪われ、「富農」と認定されなくとも、少ない食料や種子にいたるまで強制的に収奪された結果、大規模な飢饉が発生し、330万人[14]から数百万人ともされる餓死者・犠牲者を出した[7][15]

特にウクライナでの被害が甚大で、かつウクライナを標的としたソビエトの政策が飢饉の原因であったことから、ホロドモールはソビエトの政策に抵抗したウクライナの農民に対するソビエト国家による攻撃の集大成であるともされる[5]。ホロドモールがジェノサイドに該当するかについては議論がある[16]。ウクライナ飢饉[2]、飢餓テロや飢餓ジェノサイド、スターリン飢饉などとも呼ばれる[17]
概要ハルキウ州で行われた「プロレタリア革命の波」と呼ばれるコルホーズからのパンの強制収集。飢餓により街頭に倒れ込んでいる農民と気にすることなく通り過ぎるようになった人々。(1933年)

ロシア革命後、ウクライナでは自治運動が展開したが、ソビエト・ウクライナ戦争(1917-21年)やロシア内戦でのボリシェビキ勝利により、1919年ウクライナ社会主義ソビエト共和国の成立を経て、1922年にはロシア・ソビエト連邦社会主義共和国白ロシア・ソビエト社会主義共和国とともにソビエト連邦を構成した。ボリシェビキは、食糧独占令(1918年)により穀物徴発を開始するとともに、「クラーク(富農)」を「人民の敵」であるとして逮捕し、強制収容所に連行するクラーク撲滅運動も開始した。ソビエト・ロシアにとって、ウクライナから収穫される小麦の輸出は貴重な外貨獲得手段であった。飢餓が発生してもウクライナの小麦は徴発され、輸出に回され続けたため、それが更なる食糧不足を招くことになった(飢餓輸出[17]。富農撲滅運動(ラスクウーラチヴァニェ)の名の下での反革命分子の粛清・殺戮、コルホーズによる強制農業集団化によって多数の犠牲が生じた[17]。さらにウクライナ語の禁止なども行われた。ウクライナ飢饉はスターリンによる強力な意図を持った強制封鎖によるものであったとされる[17]
地域

ホロドモールの主な地域は以下の通り

ソビエト連邦ウクライナ社会主義ソビエト共和国

カザフ・ソビエト社会主義共和国

ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国クバーニヴォルガ川沿岸地域、南ウラル、北シベリアなど。


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