ホレーショ・ネルソン_(初代ネルソン子爵)
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イギリス艦隊は赤。詳細は「トラファルガーの海戦」を参照

1805年、フランス・スペイン連合艦隊をトラファルガー岬沖に捕捉、二列の縦陣で敵艦隊に接近戦を挑む、いわゆる「ネルソン・タッチ」で勝利をおさめる。この戦いでフランス艦隊27隻を撃滅させた。イギリス艦隊主力の戦列艦は27に対してフランス・スペイン連合艦隊は33であり、敵側はおよそ2割程度大きい軍船であった。その他フリゲートなども含めると英国33対仏西連合は41であり、兵力二乗の法則(集中させた兵力は、掛け算的に戦力を増す)との経験則から、実質的におよそ2倍以上の敵と戦う情勢であった。信号旗『英国は各員がその義務を尽くすことを期待する』。当該絵画では「義務(DUTY)」単語の最後の3文字の[U][T][Y]と「以上文章終わり」を意味する旗の掲揚が描かれている。ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー画『トラファルガーの戦い』。

戦闘に先立ち、兵士たちを鼓舞した信号旗の掲揚“England expects that every man will do his duty”(英国は各員がその義務を尽くすことを期待する)は、現在も名文句として残る。ネルソン自身は“Nelson convinced that every man will do his duty”(ネルソンは各員がその義務を全うすることを確信する)としたかった[3]のだが、続けて「接近戦を行え」の指示を送らなくてはならなかったので、信号士官の進言を受け、より少ない旗ですばやく信号をおくれる「英国は?期待する」の方を採用したものだった。英語のDutyには、義務とあるが、これは、日本語の義務翻訳としては、二種類あり、「自主的に行う、進んで行動する義務」と「命令あるいは強制的に行われる義務」の二種類の内、自主的に行う“義務”を指すために適切な訳語がなく「責務」と翻訳される事もある。

後世にまで伝わる名文句となった(信号文を確認した各艦では、歓声が上がったという[4])が、実際のところは、命令的で尊大な文章であるため、この時は強制徴募されて苦労する水兵からは「いまさら言われなくても義務は果たしている」と不満の声があがった。また、戦闘指揮に関係のない信号と無視されたり、水兵の士気に悪影響を与えると思われたりして、艦内に内容を伝達しなかった艦長もいた(ネルソンの死後、伝達しなかった事を悔やむ記録が残されている)。次席指揮官のカスバート・コリングウッドですら、戦闘開始寸前に、戦闘指揮とは関係無い信号の伝達に不満を感じたと書き残している。しかし、ネルソンの死によって伝説となったため、近年の帆船時代を扱ったフィクションおよび実例での戦闘(日本では皇國ノ興廢此ノ一戰ニ在リ、各員一層奮勵努力セヨを掲げたZ旗など)では、戦闘になる前に指揮官が水兵を鼓舞する信号を掲げることは定番となっている。ダニエル・マクリース(英語版)画『ネルソンの死』1860年代。

後にネルソンタッチと呼ばれる事になる、彼の新戦術は、敵味方の艦隊同士が、戦列(Line)を形成して平行に並んで撃ち合うという、当時の海戦の常識を破り、艦隊が一直線に敵中腹に飛び込み、敵艦隊を分断した後に分断した艦隊に集中砲火を浴びせ、分断した敵の1/2を殲滅するものであった。この作戦の難点は分断する為に先頭に立つ艦が集中砲火を浴び危険である事で、ネルソン自身、その役を自ら買って出る。

分断時は、旗艦ヴィクトリー号はその先頭に立って突撃をし、ネルソン自身、何度も部下から身を隠す進言を受けながら、後甲板上の全兵から見える位置(砲撃・射撃されやすい位置)に立ち続け、決して部下を盾にして身の安全を図るような事は無く、指揮官自らが率先してリスクを負う姿を示し続けた。海戦参加者の証言によると、ヴィクトリー号の甲板上が砲撃や銃撃によって阿鼻叫喚の場と化している中で、ネルソンは敵弾が近くを掠めても気にする素振りを見せず、優雅にたたずみ、あるいは優美に歩き回っていたとされる。

一方でその様子を見た連合艦隊のヴィルヌーヴ提督もネルソンの意図は察しており、接近戦に備えて各艦に狙撃手を配置していた。特にルドゥタブルのリュカ艦長など、一部の艦長は砲撃よりも小銃射撃・切込みによる乗組員の殺傷を主眼としており、ネルソン自身はその戦勝と引き換えに、戦闘中接舷したルドゥタブルからの銃弾を受け、戦死する。

なお、当時の海戦において、砲撃で敵艦を沈めるのは困難であり、最終的に接近戦・移乗攻撃で決着をつけるのは定石である。ただし、まず砲撃戦で敵艦の戦闘能力を削いだ上で、接舷するのが普通であった。接舷された側も反撃手段が残っていないため、白兵戦に移行する前に降伏するケースが多かった。ネルソンの戦法の特徴は、接近戦を早々に行った事(ゆえにフランス軍もそれに備えた準備を行っていた)である。

旗艦ヴィクトリー上で指揮を執るネルソンは4つの勲章(正確にはそれを模した布製のレプリカ)を胸にしており、狙撃を恐れた副官らからコートを羽織るように進言されても、「立派な行いでこれをもらったのだ、死ぬ時もこれをつけていたい」と退けた。ただし、当時のマスケット銃の命中精度では、ネルソン個人(或いは高級将校個人)を狙い撃ちするのは困難であった。ネルソン以外の高級将校も目立つ格好をしていたが、銃弾を受けてはいない。

ヴィクトリーからの斬り込み突撃に備え、ヴィクトリーの艦上を射撃していたルドゥタブル海兵隊の射線にネルソンが偶然に入ってしまったものと考えられている。

射撃を受けて、勝利の報告を受けながら死に行くネルソンは、ハーディ艦長に“私を祝福してほしい(私のほほにキスしてほしい)、私は義務を果たした”と喜び、神への感謝、あるいは感謝(恐らくは、全将兵)への言葉を述べながら死んでいった事が報告されている。

イギリス側死者449人に対して、フランス・スペイン連合艦隊は死者 4,480人とおよそ10倍。イギリス艦隊が失った艦はゼロであったのに対してフランス・スペイン連合艦隊は大破・拿捕22隻を数え、海軍史上まれにみる大勝利であった。この戦果により、ブーローニュの港に集結していたフランス軍イギリス上陸部隊(精鋭15万・全将兵35万)は身動きを封じられ、フランスによる英国本土占領作戦は実行不可能となった。なお当時、陸上戦闘に関してはネルソンの政策提言を無視して軍縮を行った(但し、皮肉にも海軍への信頼が背景にあった)後でもあり、フランス側が圧倒的に優れていたため、イギリス側としては引き分けや普通の勝利も許されずに、海戦に圧勝して制海権を握り、フランス軍の上陸を阻止する必要があった。この事からイギリス亡国の危機をネルソンは救ったと見なされる。
死後死後作られたネルソン提督の昇天図。王冠(月桂冠)らしきものを天使によって被せられている。

ネルソンの遺骸は腐敗を防ぐために、乳香樟脳を入れた当時最高級のコニャックの樽に入れられ、ヴィクトリーが曳航された先のジブラルタルにてワイン蒸留したスピリッツで満たされた棺に入れ替えられ、大事に鉛で密封されて本国まで運ばれた[5]。これは、当時の遺体処理としては異例であり、当時の科学技術では遺体は直ぐに腐敗し、周囲に疫病を撒き散らす為に、すぐさま水葬(海に返す)するのが当然であり、常識であった。遺体を英国に持ち帰ろうとするのは、当時としては異例であり、軍医および兵士らの強いネルソンへの思いと努力が伺われる。

宮中で報告を心待ちにしていた国王および貴族は、空前の大勝利とネルソンの死を聞きつけ、また、その死にざまに衝撃を受けた。翌年、君主以外では初となる国葬としてセント・ポール大聖堂に葬られた。


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