ホメーロス
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

[34]

モーゼス・フィンリーは『オデュッセイアの世界』(1969) において、描かれている社会は、多少の時代錯誤はあるにせよ、本当に存在したのだと断言した――ミケーネ文明と、紀元前8世紀の都市国家の時代との中間に位置する紀元前10-9世紀頃の「暗黒時代」だったのである。フィンリーは「暗黒時代とホメーロスの詩」(『古代ギリシア』、1971年)でこう書いている――

「吟遊詩人たちの懐古趣味的な意志が部分的には成功を収めたかのようである。ミケーネ社会の記憶はほぼ全て失われてしまっていたにせよ、吟遊詩人たちは、暗黒時代の(終わり頃よりも)始め頃をある程度は正確に描くために自分たちの時代より遅れたままに留まっていた――片やミケーネの残滓、片や同時代の表現という時代錯誤の断片を常に残存させて。」
マケドニアファランクス

フィンリーの立場もまた今日では疑問に付されており、これは紀元前8-7世紀の特徴を見せる時代錯誤による部分が大きい。まず、『イーリアス』はファランクスに似た3つの記述を含んでいる――

かくて彼らは兜と円き楯を整えた。
楯、兜、そして人が互いにひしめきあい、
彼らが身を屈めると、馬の髪に覆われた兜が
隣の見事な飾冠にぶつかる、さほどに彼らは密集していた。[35]

ファランクスの導入時期には論争があるが、大部分の論者は紀元前675年頃であったとしている。

戦車(二輪馬車)も、辻褄の合わない使われ方をしている――英雄たちは戦車に乗って出発し、飛び降りて足で立って戦っている。詩人はミケーネ人が戦車を使っていたことは知っていたが、当時の使用法は知らず(戦車対戦車で、投げ槍を用いていた)、同時代の馬の用法(戦場まで馬に乗って赴き、降りて立って戦闘していた)を当時の戦車に移し替えたのである。

物語は青銅器時代のただなかで進行しており、英雄たちの武具は実際に青銅でできていた。しかしホメーロスは英雄たちに「鉄の心臓」を与え、『オデュッセイア』では鍛冶場で焼きを入れられた鉄斧の立てる音のことを語っている[36]

こうした異なった時代から発している慣習の存在は、ホメーロス言語と同様に、ホメーロス世界もそれ自体としては存在しなかったことを示している。オデュッセイアの旅程の地理関係もそうであるように、これは混淆による詩的な世界を表している。
後世の芸術作品への影響ラフォン『ホメーロスのために歌うサッポー』(1824)ルロワール『ホメーロス』(1841)アントワーヌ=ドニ・ショーデ『ホメーロス』(1806)

ホメーロスが実在したか、あるいは1つの人格であるのかといった問題はさておき、ホメーロスが古代ギリシアにとって、最初の最も高名な詩人であり、古代ギリシアは文化と教養の多くを彼に負っていると言っても誇張ではない。また「西洋文学の父」として、古代ギリシアの古典期、ヘレニズム時代、ローマ時代、(西欧でギリシア語の知識が部分的に失われた中世は除く。この時代、ホメーロスの文学はギリシア人が支配階層となった東ローマ帝国(ビザンツ帝国・ビザンティン帝国)に受け継がれ、東ローマの官僚知識人の間ではホメーロスの詩を暗誦できるのが常識とされていた[37])、ルネサンスから現代に至るまで、ホメーロスは西洋文学において論じられている。

文学

ヴィクトル・ユーゴーは『ウィリアム・シェイクスピア』においてホメーロスのことをこう書いた――「世界が生まれ、ホメーロスが歌う。この夜明けの鳥である。」

オノレ・ド・バルザックはホメーロスを極めて高く位置付けてこう書いた――「その国に一人のホメーロスを与えるというのは、神の領域への侵犯ではないか?」[38]

ホメーロスは盲目の詩人であり、身体的な障害を詩的な天分が埋め合わせたのだと当初は考えられていた。このため、後世の数多くの高名な詩人や作家たちが盲目であるためにホメーロスに結び付けて考えられた。例を挙げれば、叙事詩『失楽園』の著者ジョン・ミルトン、セルビアのguzlar[訳語疑問点]のFilip Vi?nji?[訳語疑問点]、ドゴン族の狩人Ogotemmeli[訳語疑問点]、さらに最近ではアルゼンチンの作家・詩人ホルヘ・ルイス・ボルヘスなどである。

ルキアノスは多くの対話篇においてホメーロスを登場させている。

イスマイル・カダレの『Hに関する書類(フランス語版)』は、ホメーロス問題を解決する野望を持ちラプソドスたちの口承叙事詩を記録すべくアルバニアを訪れた2人のホメーロス学者の物語である。

絵画

レンブラント・ファン・レイン『ホメーロスの胸像を前にしたアリストテレス』(1653)

シャルル・ニコラ・ラファエル・ラフォン『ホメーロスのために歌うサッポー』(1824)

ドミニク・アングル『ホメーロスの神格化(フランス語版)』(1827)

オーギュスト・ルロワール『ホメーロス』(1841)

ウィリアム・アドルフ・ブグロー『ホメーロスと案内人』(1874)

彫刻

アントワーヌ=ドニ・ショーデ『ホメーロス』(1806)

フィリップ=ローラン・ロラン(フランス語版)『ホメーロス』(1812)

脚注[脚注の使い方]
注釈^ ≪ τυφλ?? ?ν?ρ, ο?κε? δ? Χ?? ?νι παιπαλο?σσ? ≫, vers 172. 讃歌は、紀元前7世紀中葉から紀元前6世紀初頭の間に作られたものである。
^ 『ハルポクラチオン(英語版)』によれば、メレスとクレテイスの物語は紀元前5世紀には既にヘラニコスが疑問視していたという。フィロストラトスの『映像[訳語疑問点]』にもこの話が現れる。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:70 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef