「統一主義者」はこれとは逆に、非常に長い(『イーリアス』が15,337行、『オデュッセイア』が12,109行)詩であるにもかかわらず見られる構成と文体の統一性を強調し、作者ホメーロスがその時代に存在していたさまざまな素材から我々が今日知っている詩を構成したのだという説を擁護した[要出典]。2つの詩の間の差異は、作者の若い時と歳を取った時とでの変化や、ホメーロス自身とその後継者との間の違いによって説明される。
今日では、批評家の大部分は、ホメーロスの詩が口頭での創作と継承の文化から筆記の文化へと移行する過渡期において、それより前の要素を再利用して構成されたと考えている。ある1人(もしくは2人)の作者が介在したことはほとんど疑いがないが、先行する詩が存在し、それらの中にはホメーロスの作品に含められたものがあることもほとんど疑いがない。木馬のエピソードを語った者たちのように、含められなかったものもあった可能性がある[32]。『イーリアス』が先に、紀元前8世紀前半頃に創作され、『オデュッセイア』が後に、紀元前7世紀末頃に創作された可能性もある。 ホメーロスのテクストは、長期にわたり口承によって伝えられていた。ミルマン・パリーはその高名な論文『ホメーロスにおける伝統的な形容辞』において、「俊足のアキレウス」や「白き腕の女神ヘーラー」のような(原文では)「固有名詞+形容辞」の形の数多くの決まり文句は、アオイドスの仕事を容易にするリズム形式に従っていると示した。1つの半句
ホメーロスのテクストの伝播
口承による伝播
パリーとその弟子のアルバート・ロード(英語版)は、セルビアのノヴィ・パザル地方の吟遊詩人が文盲であるにもかかわらず、こうした種類のリズム形式を用いて完全な韻文による長詩を暗唱できる例も示している。これらの叙事詩を記録してから数年後にロードが再び訪れた時も、吟遊詩人たちが詩にもたらした変更はごく僅かなものであった。詩法は口承文化においてテクストのよりよい伝承を確保する手段でもある。
ペイシストラトスからアレクサンドリアまでレンブラント『ホメーロスの胸像を前にしたアリストテレス』(1653年、メトロポリタン美術館蔵)
ペイシストラトスは、紀元前6世紀に最初の公的な蔵書[訳語疑問点]を創設した。キケロは、アテナイの僭主(ペイシストラトス)の命令により、2つの叙事的な物語が初めて文字に書き起こされたと報告した[33]。ペイシストラトスはアテナイを通過する歌手や吟遊詩人に対して、知る限りのホメーロスの作品をアテナイの筆記者のために朗唱することを義務付ける法を発布した。筆記者たちはそれぞれのバージョンを記録して1つにまとめ、それが今日『イーリアス』と『オデュッセイア』と呼ばれるものとなった。選挙運動の時にはペイシストラトスに反対したソロンのような学者たちも、この仕事に参加した。プラトンのものとされる対話篇『ヒッパルコス』によれば、ペイシストラトスの息子ヒッパルコス(フランス語版)はパンアテナイア祭で毎年この写本を朗唱するように命じた。
ホメーロスのテクストは羊皮紙もしくはパピルスの巻物「ヴォルメン」("volume"の語源)に書かれ、読まれた。これらの巻物は、まとまった形では現存していない。エジプトで発見された唯一の断片群の中には紀元前3世紀に遡るものもある。その中の1つ、「ソルボンヌ目録255[訳語疑問点]」は、それまでの常識とは矛盾する以下のような事実を示した――
作品を24の歌に分け、イオニアのアルファベット24文字による通し番号を付けたのはヘレニズム時代のアレクサンドリアの文法家たちの仕事よりも前だった。
歌の分割は、(1つの巻物に1歌という)実用的な必要性とは対応していない。
最初にホメーロスのテクストの校訂版を作成したのは、アレクサンドリアの文法家たちだった。アレクサンドリア図書館の最初の司書であったゼーノドトス(フランス語版)が作業に着手し、後継のビュザンティオンのアリストパネース(フランス語版)がテクストの句読法を確立した。アリストパネースを引き継いだサモトラケのアリスタルコスが『イーリアス』と『オデュッセイア』の注釈を書き、またペイシストラトスの命により確立されたアッティカのテクストと、ヘレニズム時代になされた追加部分とを区別しようと試みた。 3世紀に、ローマ人は地中海沿岸一帯[訳語疑問点]に「コデックス」の使用を広めた。これは今日で言う仮綴じ本に近いものをさす。この形式による写本で最古のものは10世紀に遡り、これらはビュザンティオンの工房による仕事であった。この一例として、現存する写本で最良のものの1つであるウェネトゥス 454A
ビュザンティオンから印刷所まで
ホメーロス言語フィリップ=ローラン・ロラン(フランス語版)『ホメーロス』(1812年、ルーヴル美術館蔵)