ホメーロス
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今日「ホメーロス問題」と呼ばれているものは、オービニャック師[訳語疑問点]の許で生まれたもののようである[27]。彼は同時代人たちのホメーロスへの畏敬に逆行し、1670年頃に『学術的推測』を書き、そこでホメーロスの作品を批判するだけでなく、詩人の存在そのものにも疑問を投げかけた。オービニャックにとって、『イーリアス』と『オデュッセイア』は昔のラプソドスたちのテクストの集積にしか過ぎなかった[27]。これとほぼ同時代に、リチャード・ベントレー(英語版)は著書『思考の自由論に関する考察』の一節で、ホメーロスは存在はしたかもしれないが、ずっと後になって叙事詩の形にまとめられた歌やラプソディアの作者であったに過ぎないと判断した。ジャンバッティスタ・ヴィーコもまたホメーロスは決して実在せず、『イーリアス』と『オデュッセイア』は文字通りギリシアの人々全体による作品であると考えた[28]

フリードリヒ・アウグスト・ヴォルフは著書『ホメーロスへの序論』(1795)において、ホメーロスが文盲であったという仮説を初めて導入した。ヴォルフによれば、詩人はこの2つの作品を紀元前950年頃の、ギリシア人がまだ筆記を知らなかった時代に作ったのである。原始的な形の歌であったものは口承によって伝達され、その過程で進化・発展を遂げ、それは紀元前6世紀のペイシストラトスの校訂によって固定されるまで続いた[29]。ここから2つの派閥が生まれた――「統一主義者」と「分析主義者」[訳語疑問点]である。

カール・ラッハマンのような「分析主義者」は、ホメーロス自身によるもとの詩を後世の追加や挿入(フランス語版)などから分離しようと試み、テクストの不整合や構成の誤りを強調した。例えば、トロイアの英雄ピュライメネースは第5歌で殺されるが[30]、それより後の第8歌で再び登場する[31]。さらにはアキレウスは第11歌で、帰らせたばかりの使者が来るのを待っている[要出典]。これはホメーロス言語にも当てはまり、これに関してだけ言うなら、ホメーロス言語は様々な方言(主にイオニア方言とアイオリス方言)や様々な時代の言い回しの寄せ集めからなっている。こうしたアプローチは、ホメーロスのテクストを確立したアレクサンドリア人たちに既にあったものである(後述)。

「統一主義者」はこれとは逆に、非常に長い(『イーリアス』が15,337行、『オデュッセイア』が12,109行)詩であるにもかかわらず見られる構成と文体の統一性を強調し、作者ホメーロスがその時代に存在していたさまざまな素材から我々が今日知っている詩を構成したのだという説を擁護した[要出典]。2つの詩の間の差異は、作者の若い時と歳を取った時とでの変化や、ホメーロス自身とその後継者との間の違いによって説明される。

今日では、批評家の大部分は、ホメーロスの詩が口頭での創作と継承の文化から筆記の文化へと移行する過渡期において、それより前の要素を再利用して構成されたと考えている。ある1人(もしくは2人)の作者が介在したことはほとんど疑いがないが、先行する詩が存在し、それらの中にはホメーロスの作品に含められたものがあることもほとんど疑いがない。木馬のエピソードを語った者たちのように、含められなかったものもあった可能性がある[32]。『イーリアス』が先に、紀元前8世紀前半頃に創作され、『オデュッセイア』が後に、紀元前7世紀末頃に創作された可能性もある。
ホメーロスのテクストの伝播
口承による伝播

ホメーロスのテクストは、長期にわたり口承によって伝えられていた。ミルマン・パリーはその高名な論文『ホメーロスにおける伝統的な形容辞』において、「俊足のアキレウス」や「白き腕の女神ヘーラー」のような(原文では)「固有名詞+形容辞」の形の数多くの決まり文句は、アオイドスの仕事を容易にするリズム形式に従っていると示した。1つの半句(フランス語版)を簡単に出来合いの半句で埋めることができる。ホメーロスの詩でしか見られないこの方式は、口承による詩に特有とされる。(詩#歴史も参照)

パリーとその弟子のアルバート・ロード(英語版)は、セルビアノヴィ・パザル地方の吟遊詩人が文盲であるにもかかわらず、こうした種類のリズム形式を用いて完全な韻文による長詩を暗唱できる例も示している。これらの叙事詩を記録してから数年後にロードが再び訪れた時も、吟遊詩人たちが詩にもたらした変更はごく僅かなものであった。詩法は口承文化においてテクストのよりよい伝承を確保する手段でもある。
ペイシストラトスからアレクサンドリアまでレンブラント『ホメーロスの胸像を前にしたアリストテレス』(1653年、メトロポリタン美術館蔵)

ペイシストラトスは、紀元前6世紀に最初の公的な蔵書[訳語疑問点]を創設した。キケロは、アテナイ僭主(ペイシストラトス)の命令により、2つの叙事的な物語が初めて文字に書き起こされたと報告した[33]。ペイシストラトスはアテナイを通過する歌手や吟遊詩人に対して、知る限りのホメーロスの作品をアテナイの筆記者のために朗唱することを義務付ける法を発布した。筆記者たちはそれぞれのバージョンを記録して1つにまとめ、それが今日『イーリアス』と『オデュッセイア』と呼ばれるものとなった。選挙運動の時にはペイシストラトスに反対したソロンのような学者たちも、この仕事に参加した。プラトンのものとされる対話篇『ヒッパルコス』によれば、ペイシストラトスの息子ヒッパルコス(フランス語版)はパンアテナイア祭で毎年この写本を朗唱するように命じた。

ホメーロスのテクストは羊皮紙もしくはパピルスの巻物「ヴォルメン」("volume"の語源)に書かれ、読まれた。これらの巻物は、まとまった形では現存していない。エジプトで発見された唯一の断片群の中には紀元前3世紀に遡るものもある。その中の1つ、「ソルボンヌ目録255[訳語疑問点]」は、それまでの常識とは矛盾する以下のような事実を示した――


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