フリードリヒ・アウグスト・ヴォルフは著書『ホメーロスへの序論』(1795)において、ホメーロスが文盲であったという仮説を初めて導入した。ヴォルフによれば、詩人はこの2つの作品を紀元前950年頃の、ギリシア人がまだ筆記を知らなかった時代に作ったのである。原始的な形の歌であったものは口承によって伝達され、その過程で進化・発展を遂げ、それは紀元前6世紀のペイシストラトスの校訂によって固定されるまで続いた[29]。ここから2つの派閥が生まれた――「統一主義者」と「分析主義者」[訳語疑問点]である。
カール・ラッハマンのような「分析主義者」は、ホメーロス自身によるもとの詩を後世の追加や挿入(フランス語版)などから分離しようと試み、テクストの不整合や構成の誤りを強調した。例えば、トロイアの英雄ピュライメネースは第5歌で殺されるが[30]、それより後の第8歌で再び登場する[31]。さらにはアキレウスは第11歌で、帰らせたばかりの使者が来るのを待っている[要出典]。これはホメーロス言語にも当てはまり、これに関してだけ言うなら、ホメーロス言語は様々な方言(主にイオニア方言とアイオリス方言)や様々な時代の言い回しの寄せ集めからなっている。こうしたアプローチは、ホメーロスのテクストを確立したアレクサンドリア人たちに既にあったものである(後述)。
「統一主義者」はこれとは逆に、非常に長い(『イーリアス』が15,337行、『オデュッセイア』が12,109行)詩であるにもかかわらず見られる構成と文体の統一性を強調し、作者ホメーロスがその時代に存在していたさまざまな素材から我々が今日知っている詩を構成したのだという説を擁護した[要出典]。2つの詩の間の差異は、作者の若い時と歳を取った時とでの変化や、ホメーロス自身とその後継者との間の違いによって説明される。
今日では、批評家の大部分は、ホメーロスの詩が口頭での創作と継承の文化から筆記の文化へと移行する過渡期において、それより前の要素を再利用して構成されたと考えている。ある1人(もしくは2人)の作者が介在したことはほとんど疑いがないが、先行する詩が存在し、それらの中にはホメーロスの作品に含められたものがあることもほとんど疑いがない。木馬のエピソードを語った者たちのように、含められなかったものもあった可能性がある[32]。『イーリアス』が先に、紀元前8世紀前半頃に創作され、『オデュッセイア』が後に、紀元前7世紀末頃に創作された可能性もある。 ホメーロスのテクストは、長期にわたり口承によって伝えられていた。ミルマン・パリーはその高名な論文『ホメーロスにおける伝統的な形容辞』において、「俊足のアキレウス」や「白き腕の女神ヘーラー」のような(原文では)「固有名詞+形容辞」の形の数多くの決まり文句は、アオイドスの仕事を容易にするリズム形式に従っていると示した。1つの半句
ホメーロスのテクストの伝播
口承による伝播
パリーとその弟子のアルバート・ロード(英語版)は、セルビアのノヴィ・パザル地方の吟遊詩人が文盲であるにもかかわらず、こうした種類のリズム形式を用いて完全な韻文による長詩を暗唱できる例も示している。これらの叙事詩を記録してから数年後にロードが再び訪れた時も、吟遊詩人たちが詩にもたらした変更はごく僅かなものであった。詩法は口承文化においてテクストのよりよい伝承を確保する手段でもある。
ペイシストラトスからアレクサンドリアまでレンブラント『ホメーロスの胸像を前にしたアリストテレス』(1653年、メトロポリタン美術館蔵)
ペイシストラトスは、紀元前6世紀に最初の公的な蔵書[訳語疑問点]を創設した。キケロは、アテナイの僭主(ペイシストラトス)の命令により、2つの叙事的な物語が初めて文字に書き起こされたと報告した[33]。ペイシストラトスはアテナイを通過する歌手や吟遊詩人に対して、知る限りのホメーロスの作品をアテナイの筆記者のために朗唱することを義務付ける法を発布した。筆記者たちはそれぞれのバージョンを記録して1つにまとめ、それが今日『イーリアス』と『オデュッセイア』と呼ばれるものとなった。選挙運動の時にはペイシストラトスに反対したソロンのような学者たちも、この仕事に参加した。プラトンのものとされる対話篇『ヒッパルコス』によれば、ペイシストラトスの息子ヒッパルコス(フランス語版)はパンアテナイア祭で毎年この写本を朗唱するように命じた。
ホメーロスのテクストは羊皮紙もしくはパピルスの巻物「ヴォルメン」("volume"の語源)に書かれ、読まれた。これらの巻物は、まとまった形では現存していない。エジプトで発見された唯一の断片群の中には紀元前3世紀に遡るものもある。その中の1つ、「ソルボンヌ目録255[訳語疑問点]」は、それまでの常識とは矛盾する以下のような事実を示した――
作品を24の歌に分け、イオニアのアルファベット24文字による通し番号を付けたのはヘレニズム時代のアレクサンドリアの文法家たちの仕事よりも前だった。
歌の分割は、(1つの巻物に1歌という)実用的な必要性とは対応していない。
最初にホメーロスのテクストの校訂版を作成したのは、アレクサンドリアの文法家たちだった。アレクサンドリア図書館の最初の司書であったゼーノドトス(フランス語版)が作業に着手し、後継のビュザンティオンのアリストパネース(フランス語版)がテクストの句読法を確立した。アリストパネースを引き継いだサモトラケのアリスタルコスが『イーリアス』と『オデュッセイア』の注釈を書き、またペイシストラトスの命により確立されたアッティカのテクストと、ヘレニズム時代になされた追加部分とを区別しようと試みた。 3世紀に、ローマ人は地中海沿岸一帯[訳語疑問点]に「コデックス」の使用を広めた。これは今日で言う仮綴じ本に近いものをさす。この形式による写本で最古のものは10世紀に遡り、これらはビュザンティオンの工房による仕事であった。この一例として、現存する写本で最良のものの1つであるウェネトゥス 454A
ビュザンティオンから印刷所まで
ホメーロス言語フィリップ=ローラン・ロラン(フランス語版)『ホメーロス』(1812年、ルーヴル美術館蔵)
ホメーロスの言語(フランス語版)は叙事詩で用いられた言語であり、紀元前8世紀には既に古風なもので、テクストが固定された紀元前6世紀にはなおのことそうであった。ただし、固定が行われる前に、古風な表現の一部は置き換えられ、テクストにはアッティカ語法(フランス語版)も入り込んだ。
長短短六歩格の韻律は、当初の形を復元できる場合があり、またある種の言い回しが行われる理由も説明できることがある。この例として、紀元前1千年紀のうちに消滅した音素であるディガンマ(? /w/)が、ホメーロスにおいては依然として韻律上の問題の解消のために表記も発音もされないながらも用いられたことがある。例えば『イーリアス』の第1歌108行は[注釈 3]――
「?σθλ?ν δ’ ο?τ? τ? πω [?]ε?πε? [?]?πο? ο?τ’ ?τ?λεσσα?
(汝、好事を口にせず、はた又之を行はず。〔土井晩翠訳〕)」
古風な-οιοとより新しい-ουの2種の属格や、また2種の複数与格(-οισιと-οι?)が競合して用いられることは、アオイドスが自分の意向で古風・新風の活用形を切り替えられたことを示している――「ホメーロス言語は、通常は決して同時に用いられることのなかった様々な時代の形式の混淆物であり、これらの組み合わせは純粋に文学的な自由さに属するものであった。」(ジャクリーヌ・ド・ロミリ(フランス語版))
その上、ホメーロス言語は異なった方言も組み合わせる。アッティカ語法や、テクストの固定の際の変化は取り除くことができる。イオニア方言とアイオリス方言の2つが残り、それらの特徴の一部は読者にも明白である――例えば、イオニア人はアッティカ=イオニア人[訳語疑問点]が長音のアルファ(?)を用いるところでエータ(η)を用い、よって古典的な「アテーナー」や「ヘーラー」の代わりに「アテーネー」ヤ「ヘーレー」と言う。