ホメロス
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木馬のエピソードを語った者たちのように、含められなかったものもあった可能性がある[32]。『イーリアス』が先に、紀元前8世紀前半頃に創作され、『オデュッセイア』が後に、紀元前7世紀末頃に創作された可能性もある。
ホメーロスのテクストの伝播
口承による伝播

ホメーロスのテクストは、長期にわたり口承によって伝えられていた。ミルマン・パリーはその高名な論文『ホメーロスにおける伝統的な形容辞』において、「俊足のアキレウス」や「白き腕の女神ヘーラー」のような(原文では)「固有名詞+形容辞」の形の数多くの決まり文句は、アオイドスの仕事を容易にするリズム形式に従っていると示した。1つの半句(フランス語版)を簡単に出来合いの半句で埋めることができる。ホメーロスの詩でしか見られないこの方式は、口承による詩に特有とされる。(詩#歴史も参照)

パリーとその弟子のアルバート・ロード(英語版)は、セルビアノヴィ・パザル地方の吟遊詩人が文盲であるにもかかわらず、こうした種類のリズム形式を用いて完全な韻文による長詩を暗唱できる例も示している。これらの叙事詩を記録してから数年後にロードが再び訪れた時も、吟遊詩人たちが詩にもたらした変更はごく僅かなものであった。詩法は口承文化においてテクストのよりよい伝承を確保する手段でもある。
ペイシストラトスからアレクサンドリアまでレンブラント『ホメーロスの胸像を前にしたアリストテレス』(1653年、メトロポリタン美術館蔵)

ペイシストラトスは、紀元前6世紀に最初の公的な蔵書[訳語疑問点]を創設した。キケロは、アテナイ僭主(ペイシストラトス)の命令により、2つの叙事的な物語が初めて文字に書き起こされたと報告した[33]。ペイシストラトスはアテナイを通過する歌手や吟遊詩人に対して、知る限りのホメーロスの作品をアテナイの筆記者のために朗唱することを義務付ける法を発布した。筆記者たちはそれぞれのバージョンを記録して1つにまとめ、それが今日『イーリアス』と『オデュッセイア』と呼ばれるものとなった。選挙運動の時にはペイシストラトスに反対したソロンのような学者たちも、この仕事に参加した。プラトンのものとされる対話篇『ヒッパルコス』によれば、ペイシストラトスの息子ヒッパルコス(フランス語版)はパンアテナイア祭で毎年この写本を朗唱するように命じた。

ホメーロスのテクストは羊皮紙もしくはパピルスの巻物「ヴォルメン」("volume"の語源)に書かれ、読まれた。これらの巻物は、まとまった形では現存していない。エジプトで発見された唯一の断片群の中には紀元前3世紀に遡るものもある。その中の1つ、「ソルボンヌ目録255[訳語疑問点]」は、それまでの常識とは矛盾する以下のような事実を示した――

作品を24の歌に分け、イオニアのアルファベット24文字による通し番号を付けたのはヘレニズム時代のアレクサンドリアの文法家たちの仕事よりも前だった。

歌の分割は、(1つの巻物に1歌という)実用的な必要性とは対応していない。

最初にホメーロスのテクストの校訂版を作成したのは、アレクサンドリアの文法家たちだった。アレクサンドリア図書館の最初の司書であったゼーノドトス(フランス語版)が作業に着手し、後継のビュザンティオンのアリストパネース(フランス語版)がテクストの句読法を確立した。アリストパネースを引き継いだサモトラケのアリスタルコスが『イーリアス』と『オデュッセイア』の注釈を書き、またペイシストラトスの命により確立されたアッティカのテクストと、ヘレニズム時代になされた追加部分とを区別しようと試みた。
ビュザンティオンから印刷所まで

3世紀に、ローマ人は地中海沿岸一帯[訳語疑問点]に「コデックス」の使用を広めた。これは今日で言う仮綴じ本に近いものをさす。この形式による写本で最古のものは10世紀に遡り、これらはビュザンティオンの工房による仕事であった。この一例として、現存する写本で最良のものの1つであるウェネトゥス 454A(英語版)があり、これを基に1788年にフランス人ジャン=バプティスト=ガスパール・ダンス・ド・ヴィヨワゾン(フランス語版)は『イーリアス』の最良の版の1つを確立した。12世紀には、碩学テッサロニケのエウスタティウス(英語版)がアレクサンドリアの注釈を集成した。サモトラケのアリスタルコスによって確立された874の訂正のうち、エウスタティウスは80しか取り上げなかった。1488年に、両作品の「初版」がフィレンツェで出版された。
ホメーロス言語フィリップ=ローラン・ロラン(フランス語版)『ホメーロス』(1812年、ルーヴル美術館蔵)

ホメーロスの言語(フランス語版)は叙事詩で用いられた言語であり、紀元前8世紀には既に古風なもので、テクストが固定された紀元前6世紀にはなおのことそうであった。ただし、固定が行われる前に、古風な表現の一部は置き換えられ、テクストにはアッティカ語法(フランス語版)も入り込んだ。

長短短六歩格の韻律は、当初の形を復元できる場合があり、またある種の言い回しが行われる理由も説明できることがある。この例として、紀元前1千年紀のうちに消滅した音素であるディガンマ(? /w/)が、ホメーロスにおいては依然として韻律上の問題の解消のために表記も発音もされないながらも用いられたことがある。例えば『イーリアス』の第1歌108行は[注釈 3]――

「?σθλ?ν δ’ ο?τ? τ? πω [?]ε?πε? [?]?πο? ο?τ’ ?τ?λεσσα?

(汝、好事を口にせず、はた又之を行はず。〔土井晩翠訳〕)」

古風な-οιοとより新しい-ουの2種の属格や、また2種の複数与格(-οισιと-οι?)が競合して用いられることは、アオイドスが自分の意向で古風・新風の活用形を切り替えられたことを示している――「ホメーロス言語は、通常は決して同時に用いられることのなかった様々な時代の形式の混淆物であり、これらの組み合わせは純粋に文学的な自由さに属するものであった。」(ジャクリーヌ・ド・ロミリ(フランス語版))

その上、ホメーロス言語は異なった方言も組み合わせる。アッティカ語法や、テクストの固定の際の変化は取り除くことができる。イオニア方言とアイオリス方言の2つが残り、それらの特徴の一部は読者にも明白である――例えば、イオニア人はアッティカ=イオニア人[訳語疑問点]が長音のアルファ(?)を用いるところでエータ(η)を用い、よって古典的な「アテーナー」や「ヘーラー」の代わりに「アテーネー」ヤ「ヘーレー」と言う。こうした2つの方言の「還元不可能な共在」(ピエール・シャントレーヌ(フランス語版)の表現)は、様々な方法で説明しうる――

アイオリスで創作され、イオニアへと渡った。

2つの方言の両方が用いられていた地域で創作された。

異なる時代の形式の混淆と同様に、主に韻律などのためにアオイドスが自由な選択を行なった。

実際のところ、ホメーロス言語は詩人たちにとってしか存在しなかった混合言語であり、現実には話されず、そのことが叙事詩が日常の現実との間に作り出す断絶を強めている。ホメーロスの時代よりもずっと後になると、ギリシアの作家たちはまさに「文学らしくする」ためにこホメーロス的な語法を模倣するようになる。
ホメーロスは歴史家か?ミケーネで発掘された金製の『アガメムノンのマスク』。現在はアテネ国立考古学博物館

古代の作家たちはホメーロスが本当に存在した出来事を歌ったのであり、トロイア戦争は本当に起きたのだと考えていた。彼らはオデュッセウスがアオイドスのデーモドコスにかけた言葉を信じていた[訳語疑問点]――

アカイア軍の運命とアカイア軍の行動と、
その成功と受難とをいみじく君は述べ歌ふ、
さながら之を見し如く、或は他より聞く如く。」

?『オデュッセイア』第8歌489-491 土井晩翠訳

19世紀に、ハインリヒ・シュリーマン小アジアで発掘調査を実施したのも叙事詩に描かれた場所を再発見するためであった。シュリーマンがまずトロイアと呼ばれる都市を、それからミケーネの諸都市を発見した時、これでホメーロスの物語の真実性が証明されたと考えられた。アガメムノーンの顔を象ったマスク、大アイアースの楯、ネストールの杯などが次々と発見されたと思われ、彼らもまた実在したと考えられた。アオイドスによって描かれた社会をミケーネ文明と同一視したのである。

この文明に関する諸々の発見(とりわけ線文字Bの解読)により、この説は急速に疑問視されるようになった。アカイアの社会は、戦士たちによる国体なき貴族政治というよりもメソポタミア文明に近い、行政・官僚支配によるものだった。ジャクリーヌ・ド・ロミリ(フランス語版)はこう説明している――「最近発見された諸文書と、詩に書かれた内容との間には、『ローランの歌』と、ローランの時代の公正証書との間にあるのと変わらぬぐらいの繋がりしかない。」[34]

モーゼス・フィンリーは『オデュッセイアの世界』(1969) において、描かれている社会は、多少の時代錯誤はあるにせよ、本当に存在したのだと断言した――ミケーネ文明と、紀元前8世紀の都市国家の時代との中間に位置する紀元前10-9世紀頃の「暗黒時代」だったのである。


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