ホセ・リサール
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初等教育を終えると1877年に16歳にしてマニラにあるアテネオ学院(現在のアテネオ・デ・マニラ大学)に入学し、農学を学んだ[9]。さらに同校で土地測量の技術を学びつつ、母が失明の危機に陥ると当時のフィリピンの最高学府サント・トマス大学医学を学んだ[9]。在学中の1879年にスペイン語の詩のコンテストで最優秀賞を獲得し、1881年9月にスペイン政府から「土地査定技師」の免許を授与されている[10]

リサールは父の反対を押し切って宗主国であるスペインのマドリード大学に留学した。
最初の海外留学

リサールは1881年にアテネオ・デ・マニラ専門学校を卒業、翌1882年にサント・トマス大学医学部を修了した後、同年中にヨーロッパへと旅立った[11]。1882年6月13日マルセイユに、6月15日にバルセロナに到着した後、最終目的地であったスペインの首都マドリードに到着し、同年10月に国立マドリード大学の医学部と哲文学部の両学部に入学した[10]。マドリード大学でリサールは猛勉強し、26歳までにスペイン語フランス語イタリア語ポルトガル語カタルーニャ語中国語英語ドイツ語オランダ語スウェーデン語ロシア語ラテン語ギリシャ語ヘブライ語サンスクリット語などの諸言語を習得し[12]中国語日本語タガログ語ビサヤ語イロカノ語を研究していた[13]。大学時代の同級生には後に哲学者として著名になるミゲル・デ・ウナムーノがおり、リサールと同じ学級でギリシャ語を学んでいる[14]1885年6月にマドリード大学の哲文学博士と医学士の学位を取得したが、金銭事情により医学博士号は取得できなかった[15]。マドリード大学を出た後、1885年7月から1886年1月までパリ大学でフランス語と眼科学を学び、この時にフランス革命の「人権宣言」をタガログ語に翻訳している[16]。1886年2月から1887年5月までドイツ帝国のハイデルベルク大学ライプツィヒ大学ベルリン大学で引き続き医学と、加えて社会学を学び、ドイツ語で書いた社会学の論文が評価されてドイツ国籍の取得を薦められたが、これを固辞している[17]。ドイツ滞在中の1887年2月21日にベルリンで小説『ノリ・メ・タンヘレ(英語版)』(Noli Me Tangere, ラテン語で『我に触れるな』の意)を出版した[18]。1887年7月3日に26歳にしてヨーロッパを離れ、同年8月5日にフィリピンに戻った[19]

フィリピン帰国後暫くは出身地のカランバで医者として従事していたが、間もなく同年に出版した小説『ノリ・メ・タンヘレ』が反植民地的だとフィリピンのスペイン植民地支配層から問題にされたため、身の危険を感じたリサールは27歳にして再び留学へと旅立った[20]


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