ホセ・デ・サン・マルティン
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1821年7月9日にサン・マルティンはリマに入城。ペルー独立を宣言した。リマ議会は、彼をペルー護国官に任命。しかしペルーの独立は海岸部分にとどまり、アルト・ペルー(現在のボリビア地域)に勢力を張るスペイン軍に対抗する兵力は持ち合わせていなかった上、マルティンの取った奴隷解放などの政策は現地の既得権益層の支持を得られなかった[2]。彼は、当時キトグアヤキル(現在のエクアドル)解放を目指し戦っていたシモン・ボリーバルらの大コロンビア軍に支援を求めることにした。
グアヤキル会談「ボリビア独立戦争」も参照

1822年7月26日、グアヤキル(現エクアドル南部にある港湾都市)でシモン・ボリバルとのグアヤキル会談(英語版)が開催された。会談の内容は資料が残っておらず、詳細は不明であるがグアヤキル地方の帰属問題とペルーのスペインからの独立の仕方であったと言われている。ただ、この会談で共和主義者のボリーバルと君主主義者のサン・マルティンの間に大きな隔たりがあることが確認されたことだけは事実である。

それでもサン・マルティンはボリーバルに自らを部下にして欲しいと申し出たが、ボリーバルはもはやペルーで失敗しつつあるサン・マルティンを見限ってこの申し出を断り、サン・マルティンはこの会談に失望し引退を決意する[2]。「ボリバルは我々の期待した人物ではない」と告白したとも言われ、ペルー議会に護国官の辞任を申し出る。オイヒンスへの手紙には「暴君といわれ、国民から王、皇帝、さらには悪魔にさえなりたがっているといわれるのは耐えがたい」と告白している。
サン・マルティンのペルー離脱

帰国後、メンドーサで妻子ともどもと穏やかな生活を送ることを夢見ていたが、妻の突然の死の後、傷心を抱いた彼は、激しくなるブエノスアイレスと地方諸州の戦争に巻き込まれるのを嫌って娘とともに1824年イギリスに亡命した。その後アルゼンチンに帰国しようとしたが、船上で罵声を浴びせられて再びヨーロッパに戻った。
最後サン・マルティンの写真。1848年、パリにて。

最後はフランスブーローニュ・シュル・メールで余生を送り、失意の内に死去した。

サン・マルティンがラテンアメリカで再評価されるのは1880年代に入ってからだった。
人物像将軍の柩(ブエノスアイレス大聖堂)

南アメリカをスペインから独立させるために果たした業績はシモン・ボリーバルと比較すると、同等とまで言うことは難しいが、現在でも南米南部の独立の英雄として広く尊敬を集めており、特にアルゼンチンでは彼の命日を国民の祝日として定め、紙幣の肖像画(現行の5アルゼンチン・ペソ紙幣)にも採用している。

現在サン・マルティンの柩は、ブエノスアイレスの五月広場に面したブエノスアイレス大聖堂に、アルゼンチン、チリ、ペルーの聖女像に囲まれて安置されている。
出典^ Jose de San Martin Argentine revolutionary Encyclopadia Britannica
^ a b “【世界史の遺風(71)】サン・マルティン 歴史に翻弄された解放者 東大名誉教授本村凌二”. 産経新聞 (2013年8月15日). 2013年9月28日閲覧。
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先代
スペイン統治ペルーの国家元首
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