ホスバッハ覚書
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コンスタンティン・フォン・ノイラート(外務大臣)

フリードリヒ・ホスバッハ(総統付個人副官)

ヒトラーによる現状認識

ヒトラーはドイツの政治目標を「民族共同体8500万人の安全と維持およびその拡大にある」とした[12]。ドイツ民族共同体を維持するためには、他の人種よりも広大な生活空間が必要であり、それを一世代か三世代かの間に見つけ出す必要があると述べた[12]。またアウタルキー構築や世界市場への参加によってこの状況が改善させるかどうかを提示したが、アウタルキー政策は食糧や石炭の自給が不可能であるため実現できず[13]、世界市場への参加はすでに植民地化されていない土地は存在せず、イギリスによって海が押さえられている以上不可能であるというものであった[14]。そしてドイツは経済にとって必要な原料供給地をドイツと地続きであるヨーロッパに求めなければならないという結論が導き出された。

しかしヨーロッパにおける領土拡大は、フランスおよびイギリスという「憎むべき敵」[15]の反発を招く可能性があるとした。イギリスとフランスはドイツを目の上のこぶとして考えており、これ以上ドイツの拡大を望んでいないため、旧植民地(ドイツ植民地帝国)を返還することは、ドイツが軍事的にイギリスより強大であるという状況しかないとした[15]。しかし各自治領の権利拡大によって、やがてイギリス帝国は崩壊するとみていた[16]。フランスはイギリスより有利であるが、内政的に問題を抱えているとしている[17]
ヒトラーによる戦争計画

ヒトラーはドイツが抱えている問題を解決するためには武力によるものしか存在せず、それをいつ、どのようにして行うかが問題であるかとした[17]。さらにヒトラーは戦争を行うべきタイミングとして次のパターンを挙げた[17]
戦争を起こすべきタイミング

ドイツ軍の拡張と軍備の状況は進展し、他国に比べて近代化している。しかし1943年から1945年を過ぎると他国に対するアドバンテージを失うため、どんどん不利になっていくとしている[17]。また外貨不足によって食糧危機を毎年招く可能性も指摘している[17]。さらにナチ党指導者の高齢化や産児制限による青少年の減少や、国防軍の維持の観点からも、この時期、もしくはそれ以前に行動を起こさないという選択肢はあり得ないとした[18]

また、この時期以前に戦争を起こすべきタイミングとしては、フランスが内政上、もしくは他国の戦争に巻き込まれている時期であるとした[18]
戦争の目標

戦争の目標としては第一にオーストリアチェコスロバキアを同時に打ち負かすことであるとした[18]。これは西方との紛争の際に、側面からの攻撃を回避するためであるとし[18]、さらに両国から300万人の住民を追放して500万?600万人分の食糧供給増加がみこまれるとしていた[19]。ヒトラーはフランスとイギリスがチェコスロバキアを内心で見捨てているとし、ドイツによって解決されることを容認していると見ていた[18]。またイタリア王国もチェコスロバキア処分に異議を持ち出さないとみていたが、オーストリア問題については不透明であり、すべてはベニート・ムッソリーニの存命次第であるとした[20]。さらに攻撃が迅速に行われれば、背後にソビエトを抱えるポーランドも軍事介入を行えないであろうと見ていた[20]

ヒトラーは当時進行中であったスペイン内戦がまだ3年ほどは続くと考えていた。しかし、フランシスコ・フランコの100%の勝利は望ましくなく、完全勝利後にはスペインがバレアレス諸島に駐留するイタリアの撤退を求めるであろうと考えていた[20]。ドイツにとって望ましいのは地中海における緊張の継続であり、要地であるバレアレス諸島へのイタリア駐留の継続はやがてフランスとイタリアの紛争を招く可能性があるとした[20]。ヒトラーはその時期を対オーストリア・チェコスロバキア戦争のタイミングであると指摘し、「電撃的に早く」奇襲攻撃を行わなければならないとした[21]
他の参加者による意見左からブロンベルク、フリッチュ、レーダー。1936年9月

ブロンベルクとヴェルナー・フォン・フリッチュ陸軍総司令官はヒトラーのフランス認識について反論した。フリッチュはフランスがイタリア戦争を抱えていても、西部戦線においてドイツ軍より大きな兵力を動員可能であるとした[11]。また、ブロンベルクはチェコスロバキア国境要塞(英語版)がマジノ線並に強固であり、電撃的な勝利は困難であると指摘した[11]。ブロンベルクはこれらの作戦の研究の必要性があるとしたが、ヒトラーは事態はそこまで差し迫っていないと述べた[11]。ノイラートはフランスとイタリアの紛争が起きる可能性は低いと指摘したが、ヒトラーは1938年夏には発生する可能性があるとした[11]。ゲーリングはスペイン内戦に対するドイツの介入を中止することを考慮する必要があると判断したが、ヒトラーはその決定を必要な時期まで留保しておくように述べた[11]
覚書の作成

この会議の公式な議事録は作成されていない[1]。しかし、会議の出席者であり、総統個人副官のフリードリヒ・ホスバッハ大佐は、会議の状況を私的なメモとして記録し、11月10日に国防省内でメモと記憶を元として覚書を作成した[1]

ニュルンベルク裁判中にはこの史料自体の真贋を巡って論争が行われたが、ホスバッハ自身が「全体として」彼自身の作成したオリジナルを再現したものであると認めている[22]。また内容の信憑性や、史料の真贋にまつわる論争はすでに決着している[22]
影響

この会議においてヒトラーの意見に否定的な見解を述べたブロンベルクとフリッチュは1938年2月頃に相次いでスキャンダルによってその地位を追われることになる(ブロンベルク罷免事件)。また、ノイラート外相やシャハト経済相らも閑職に追いやられ、かわってヴィルヘルム・カイテルヴァルター・フォン・ブラウヒッチュヨアヒム・フォン・リッベントロップといったヒトラーの方針に忠実な者達がその地位に就いた[10][23]


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