ペーター・ハントケ
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この言動は親セルビア的であるとしてマスコミから集中砲火を浴び、ギュンター・グラスハンス・マグヌス・エンツェンスベルガーらからも強い批判を受け、また前述のヴィム・ヴェンダースともこの問題を機に仲違いをしている。ハントケは20年以上前に受賞したゲオルク・ビュヒナー賞を返上するなど態度を崩さず、この問題に関しては一貫して頑固な姿勢を崩していない。2003年から始まったアメリカ主導のイラク攻撃及びその後発覚したアメリカの情報偽装問題に関してもユーゴ問題を引き合いに出し識者やマスコミは糾弾する資格が無いと月刊プレイボーイ誌において語っている。2005年にはスロボダン・ミロシェヴィッチ前大統領から国際戦犯法廷での弁護に立つように要請され、直接の弁護は断ったもののエッセーなどの言論でこれに答えている。2019年のノーベル賞受賞に関して、ヨーロッパの文壇ではハントケに対する批判や論争が再燃したが、選考機関であるスウェーデン・アカデミーの複数のメンバーが、「ハントケが戦争や虐殺を賛美したり相対化したりした証拠はない」と反論した[3]
著作
小説

雀蜂(1966年)

内界の外界の内界(1969年)

ペナルティキックを受けるゴールキーパーの不安(1970年)

長い別れに寄せる短い手紙(1972年)

幸せではないが、もういい(1972年)

真の感覚の時(1975年)

ゆるやかな帰郷(1979年)

左ききの女(1976年)

こどもの物語(1981年)

反復(1986年)

だれもいない入り江での一年(1994年)

イメージの喪失(2002年)

ドン・ファン(2004年)

別の国の私の日(2021年)

戯曲

観客罵倒(1966年)

カスパー(1967年)

被後見人が後見人になりたがる(1967年)

クヴォドリベット(1969年)

ボーデン湖の騎行(1972年)

いくつかの村について(1982年)

私たちがたがいになにも知らなかったとき(1992年)

問いの技法(1994年)

不死への備え(1997年)

丸木舟での航海(1999年)

地下鉄ブルース(2003年)

アランフエスの麗しき日々(2012年)

映画

ゴールキーパーの不安(1972年)原作・台詞

まわり道(1974年)原作・脚本

左利きの女(1978年)監督・脚本

ベルリン・天使の詩(1987年)脚本

日本語訳

『不安:ペナルティキックを受けるゴールキーパーの』(羽白幸雄訳、
三修社、1971年)

『カスパー』(龍田八百訳、劇書房、1984年)

『左利きの女』(池田香代子訳、同学社、1989年)

『反復』(阿部卓也訳、同学社、1995年)

『空爆下のユーゴスラビアで』(元吉瑞枝訳、同学社、2001年)

『幸せではないが、もういい』(元吉瑞枝訳、同学社、2002年)

『こどもの物語』(阿部卓也訳、同学社、2004年)

『私たちがたがいになにも知らなかった時』(鈴木仁子訳、論創社、2006年)

『ドン・フアン(本人が語る)』(阿部卓也・宗宮朋子訳、三修社、2011年)

『アランフエスの麗しき日々』(阿部卓也訳、論創社、2014年)

『ハントケ・コレクション 1?3』(阿部卓也・元吉瑞枝・服部裕訳、法政大学出版局、2023-2024年)

関連書籍

斎藤松三郎 著『夢のありかを求めて ペーター・ハントケ論』(
鳥影社、2001年)

脚注[脚注の使い方]^ The Nobel Prize in Literature 2019
^ 『「中央ヨーロッパの幻想」プレドラグ・マトヴェイェーヴィチ、土屋良二訳『旧東欧世界ー祖国を失った一市民の告白』』未来社、2000、69頁。 
^ ?Keine Beweise dafur, dass Handke dem Blutvergiesen Tribut zollte“










ノーベル文学賞受賞者 (2001年-2025年)


V・S・ナイポール (2001)

ケルテース・イムレ (2002)

J・M・クッツェー (2003)

エルフリーデ・イェリネク (2004)


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